ミャンマーの軍政から民政移管の歴史と日本によるミャンマー支援・市場拡大の期待

日本とミャンマー(旧ビルマ)の関係は、『建国の父』とされるアウンサンとその部下を日本の南機関で軍事訓練してビルマ独立義勇軍を創設し、ビルマ独立戦争の尖兵としたことで知られる。日本軍の支援を受けてイギリス軍を追放した後、ビルマ国民軍を指揮するアウンサンは、日本によるビルマの傀儡政権化(完全独立を許さないように見える姿勢)を危惧するようになっていく。

牟田口廉也の『インパール作戦の失敗』と相次ぐ日本の敗報(東南アジアの兵力激減の状況)を聞いて、日本を切り捨てて連合国軍につくことを決めたアウンサンは、『反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)』を結成して英軍と共に日本軍を首都ラングーンから追い落とした。しかし、英国が承認を渋ったビルマの完全独立は、アウンサン暗殺の翌年1948年1月にまでずれ込むことになった。

娘のアウンサンスーチーは、軍政下の長期軟禁・監視にも折れることなく自らの意思を貫いた民主化指導者として有名であるが、父のアウンサンは独立運動のリーダーではあったが、当時の混乱する弱肉強食の政治情勢もあって、娘のような自由民主主義者ではなく軍政の中心人物であった。1962年に軍事クーデターを起こしたネ・ウィン将軍が長期にわたってソ連側の社会主義圏に組み込まれる軍事独裁政権を運営したが、冷戦終了後には軍事政権と民主化運動の対立、アウンサンスーチー氏の軟禁事件などが起こる。

しかし、軍部でガチガチの保守派の頭目だったソー・ウィン首相が2007年に死去、改革派の現大統領セイン・テインが首相となって権力を握ったことにより、段階的に軍政が空約束していた憲法制定と議会開催に向けた動きが起こり始める。2008年に新憲法の国民投票を実施、2010年には新憲法下での初選挙とアウンサンスーチーの軟禁解除を実行、2011年には民政移管を公表したことで国際社会(自由主義圏)の警戒感が弱まり市場への投資も急増した。

日本メーカーが現地生産するミャンマー製のアパレル・雑貨などが段階的に輸入されるようになっており、ミャンマー製は中国製と比較してもコスト面・品質面での優位性が指摘され始めている。道路・鉄道・水道・電気・ガス・空港などの社会インフラが未整備であり、勤勉で細かい手作業を厭わない国民気質(製造業の適応性の高さ)を持つといわれるミャンマーは、『アジア最後のフロンティア』とも呼ばれ、労賃が上昇して投資が加熱したBRICs経済に変わる投資先としてベトナムやインドネシア、タイなどと並んで期待されている。

ミャンマーの民政移管は『欧米諸国の経済制裁解除』とセットで実行されており、実質的にミャンマーと社会主義圏(非自由主義圏)である中国・ロシアとの政治経済的な距離を相対的に開かせる可能性もある。

今まで、ミャンマーに対する最大の投資国・支援国は『中国』(累積投資額で約140億ドル)であり、中国は中東・アフリカ・アジアにおいて『欧米諸国の政治思想や価値観とは合わない独裁的な国々』を積極的に支援してきたという経緯があるが、ミャンマーは民政移管でアメリカや日本、EUとの対立点を解消しようと努めている。

資源・土地の利権と絡む開発至上主義のインフラ支援・先行投資が多いとされる中国は、日米欧がまともに市場投資・国づくりの支援に乗り出してくれば、必ずしも競争優位を保てるとは言えない。ミャンマーの今後のインフラ発注や貿易活動は、『環境保護技術・地元雇用創出・技術供与・公正な権益配分』に配慮する国に対してより多く出されることになると予測されるが、日本はミャンマーの国づくりや経済発展、ミャンマー人の生活水準(技術水準)の向上に寄与するような効果的なODAを通じて、Win-Winの関係を長期的に作り上げていくことが大切ではないかと思う。

910億円にのぼるODAの目玉は、日本企業が現地人も積極採用する工業団地・工場施設の開発のようだが、ミャンマー人が将来的に自立可能な産業を作れるような人材育成、産業とインフラの基盤整備が優先課題となる。『民主的な国家機構・議会運営・法制度の整備,公正な経済ルールの設定』を少しでも早く進めるためには、若手の人材(法律家・政治家・企業人)の教育支援という部分でも、積極的にビルマから意欲・能力のある留学生を日本の学校に無償誘致(体験留学)するなどの支援を考えることができるかもしれない。