自我の強さと自他の差異が生み出す“優越感・劣等感・自己顕示”をどう考えるか?:『超訳 ブッダの言葉』からの思索

仏陀(釈迦)が起こした仏教は、煩悩・欲望の源泉である『自我』を滅却しようとする特異な宗教であり、自我の現れとしての『自己顕示・慢心・自慢』を戒めている。

砕けたポップな言葉で経典の言葉を今風に翻訳した『超訳 ブッダの言葉』を電子ブックで買ったので、その言葉を引きながらブッダの思想や仏教の世界観を考えてみます。

ちょっと言葉が砕けすぎているというか、原文ままの翻訳ではない意訳なので、仏教の学問的な勉強(哲学的・権威的な固い文言を読みたい目的)には向いてないですが、気楽に人生哲学のようにして読み流す一般人向けの本としては良いと思います。『超訳 ニーチェの言葉』の姉妹本ですが、こちらも岩波文庫のように哲学的な重厚感、解釈の奥行きを感じさせる文章(読む人を選ぶ文章)ではなく、現代風のざっくばらんな話し言葉を意識して書かれた文章ですね。

諸法無我とは『自分』と『他人』との境界線が消えることであり、自我の実在性(確固とした他と区別される自分の意識)がいずれは死滅する虚妄・幻影だということを達観することなのだが、自分の価値を顕示しようとする試みは自他の心を惑わせ、いずれは挫折する(生命が燃え尽きる)宿命の下にある。

029 『誰々の』を忘れるハピネス

『この考え(アイディア)は僕のオリジナルさ』
『これはあの人の発案だ。負けたなぁ』
『これはあいつの意見だ。けなしてやろう』
これら『誰々の』という狭い見方をすると、君の心は、我他彼此(がたぴし)と苦しくなる。

『自分の』『他人の』。
このふたつを君が忘れ去ったなら、仮に何も持っていなくても、幸せな心でいられるだろう。

経集951

なぜ自我の突出した優位性、他者に対する勝利の宣言を仏教は禁じるのだろうか、それは仏教が目指す究極の境地が、古代ギリシアのアパテイアにも似た『精神の平衡状態(感情の揺らぎのない状態)』にあるからで、“優越感”に溺れるものはその反動としての“劣等感”に沈みやすいものでもあるからだろう。

030

他人から罵られても批判されても、尊敬されても賞賛されても、どちらにしても同じ心でいるように。

『どうして、こんなこともできないのかなあ』などと罵られても、心に生まれる劣等感にいちはやく気づいて、『ま、いっか』と受け流す。

『すごい、さすがだね』などと褒められても、生意気な優越感が心を占領しそうなことに、はっと気づいて、『ま、いっか』と受け流す。

経集702

他人よりも自分のほうが上(幸福)だと思った瞬間に生じる優越感・慢心などは泡沫のようなもので、次の瞬間には自分よりも上(幸福)だと思う他者に遭遇して劣等感・嫉妬に苛まされるといった『終わりなきマッチポンプ』であくせくする人もいたりする。いたずらに自分語りをして自慢することによって得られるものというのは、『他人からの敬遠・嫌悪』と裏合わせの『刹那的な満足・優越』くらいのもので、『人物としての器・無常を見つめる心の強度』を自壊させる毒を孕む。

俗世にあっては競争原理の中で勝者(優越者)になりたいと願い、敗者(劣位者)になりたくないと抗うのが常であるし、そういった勝ち負け二元論の単純な世界の中で、一喜一憂しながら寿命を終える人も少なからずいるのが現実ではある。

『他者との差異に対する優劣の感情』は、自分と他者との本心からの共感を阻害して、自分のプライドや支配欲だけに囚われてしまうことで、かえって絶対的な孤立感(他者との敵対意識の強調)を招き、『自分以外はすべて敵(他者の幸福と自己の幸福の不一致)』のような不信感・張り合いの強さを抱えた人格を作ってしまう。

044 非難でも賞賛でもなく、法則を語る

他人を褒めてプライドを刺激したり、他人を貶してプライドを刺激したりすることが、相手の心を混乱させることを知っておくように。

賞賛することも非難することもなく、『こうすれば、こうなるよ』と法則のみを指摘するとよい。

たとえば瞑想修行をしている人に、『そういう欲望にふけった愚かな瞑想法だと自分が苦しくなるだけですよ』という言い方をすると、それは非難となり相手をイライラさせる。

『あなたは欲望にふけった愚かな瞑想法をせずに、苦しむことなく正しい実践の仕方ができていますね』という言い方をすると、それは賞賛となり相手の心をうわつかせる。

そうした非難や賞賛のかわりに君が単に、『欲望にふけらない瞑想をすれば、苦しむことのない正しい実践になりますね』という言い方をすれば、シンプルに法則を語ることになる。

それが、相手のためになり君のためにもなるだろう。

中部経典『無諍分別経』

上の言葉に見る喜びにしても悲しみにしても他者の心を刺激しないコミュニケーションというのは仏教らしい発想ではあるが、逆説的に俗世においては『他者に心を揺さぶられる楽しみ・苦しみ』に依存的な魅力や人生の意義を感じてしまうという人は多く、その道を誤れば(自己愛・承認欲求の肥大を他者に満たしてもらいたいとしがみつけば)自分や他者を酷く傷つけてしまうこともあるだろう。

他者から好かれたい・認められたい、あるいは他者から嫌われたくない・否定されたくないといった思いはおよそ人間に普遍的な心情ではあるが、そればかりに心が縛られてしまうと、他者に自分の生き方・気持ちの大部分が決められてしまうという『人生の他律性・不自由さ』は極まってしまうだろう。仏法の無我とは自由の言い換えでもあるが、『自我の強さとその裏返しである他者のまなざし』に必要以上に縛られないメソッドとして仏教を学ぶ楽しさがある。

また時間を見つけて、『超訳 ブッダの言葉』をベースにしながら、あれこれ色々な角度から仏教の掲げる世界観と仏陀の思想の効果(現代的な応用の余地)を検証してみたいと思います。