鳩山元首相の『尖閣諸島』に関する発言と中国の尖閣諸島への領海侵犯2:なぜ国境は存在するのか?

思想問題としては、『なぜ目に見えない国境は存在するのか、国境の線引きの根拠はどこにあるのか、どうして国家は実利(生産性・居住性)の薄い国境でも譲らないばかりか時に殺し合いまでするのか』は古くて新しい問題でもある。

この記事は、『前回の記事』の続きになっています。

近代以前の国境(領土・領海)は、基本的に人間が居住したり生産活動や統治行為(徴税)をしている場所をベースにした広がりに過ぎず、生産的・居住的な縄張りと分かりやすい地形上の区切りをやや拡張した曖昧さを残すものだった。近代国家として産声を上げた日本が、竹島・尖閣諸島を誰も支配してない『無人の無主地』と認定して占取権を宣言できたのも、周囲の前近代国家の国境の概念が確立しておらず、そういった生産性・居住性の低い無人島・海域への権力の関心が相当に弱かったからでもあった。

いうまでもないが物理的な地球上の土地や海には分かりやすい線などは引かれていないため、国境という人工的な領域の線引きは『(国際社会に承認された線引きがなされた)世界地図』を目安にしながら、『相対性・恣意性』を必ず伴うことになる。その相対性・恣意性が強まる領域というのが『他国との境界線・無人かそれに近い辺境』であり、中国が強硬に領有権(核心的利益)を主張している『尖閣諸島』というのはその辺境(境界線)なのである。

無知のヴェールによる正義論で知られる政治哲学者ジョン・ロールズは、『諸人民の法』の中で、近代国家の国境は確かに恣意的なものでありその根拠には疑念のある線引きも多いが、そうであっても『一定の囲い込んだ領域内部における人々の生活・生産活動と環境保全』に責任を持った統治を行うという政治的意思の表明としての『現状の国境のあり方』を、完全に無効なもの(フリーな出入を許しても良いもの)と見なすことはできないという『功利主義の持論』を述べている。

所有権者が不明で管理されない誰もが自由に使っても良い土地・財産はいずれ劣化・枯渇して無価値化してしまう(自分のものではない財産を誰も大切・丁寧に扱わない)という『共有地の悲劇(所有権肯定の理論)』も、国家が責任を持って囲い込んだ領域を管理するという国境線のあり方を補強している。

居住性が悪くて生産性が乏しい『辺境・海域(境界線)』は、よほど注意して管理したりパトロールしていないと、外国・流民によって侵犯(占拠)されたり自国の国民の意識から忘れ去られたりするものであり、竹島にしても尖閣諸島にしても『韓国・中国の対日の国威発揚』という政治的意図がなければ、大半の人間にとってはまず自分から関心を持つことがない(99%以上の人間はその島に行かず島のことを考えないままに死んでいく)無人島である。

仮に、マスメディアが竹島・尖閣諸島の映像や情報を一切報道しなければ、勝手に韓国や中国が誰もいない無人島で領域侵犯・不法占拠しても漁業関係者以外の実害はないし、大半の国民はその島の名前さえ知らないままに終わる可能性が高い。仮に漁業権・漁業操業範囲の適正な利益配分が交渉でなされたとすると、中国・韓国はその不法占拠(一方的で違法な島の管理・警備)そのものから引き出せる直接的な利益を、21世紀のうちには引き出せないままに終わることも十分に有り得る。

『辺境・境界線』と『既に定住して生産活動(生活)を行っている領域』との最大の違いは大きな実利(生活への実害)の有無にあるが、尖閣諸島にせよ竹島にせよその意味では、知らないなら知らないままに終わってしまう『辺境・境界』であり、実際に自分の生命を賭けてまでその土地を守りたいという国家権力の意志(物語性)はあっても、よほどの右翼か漁業関係者でもない限りは自分自身が島防衛の戦闘に参加したいという人は少ないだろう。

ジョン・ロールズがいうように、恣意的な国境線の最大の存在意義は、『囲い込まれた領域における人々の生活と環境保全の責任ある統治的管理』にあると合理的には考えられるから、囲い込まれた領域の居住性が極端に低かったりその環境保全への国民のコミットメントが乏しい場合には、その辺境・境界への興味関心はマスメディアや歴史教育、政治イデオロギー(国家対立の図式)の後ろ盾がなければ一般的に相当に弱いからである。

国境線を引く国家が人々にもたらした最大の恩恵は『社会契約による個人間の闘争の調停・抑止』であったが、『万人の万人による闘争状態』は『国家と国家による闘争状態』に置き換えられるリスクがあり、国際協調路線が王道として定着しつつある現代においても『境界線・民族意識・国家主義を原因とする敵-味方のフレームワーク』を完全に乗り越えられたわけではない。