参院選の論点:第96条・第9条からの自民党の憲法改正の姿勢をどう見るか。

日本国憲法はアジア太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦と総力戦の甚大な被害を受けて制定された国民主権の憲法であり、『天皇主権・国体思想』によって教育した国民(臣民)を皆兵化・道具化したり思想・言論の統制をしていた時代の終焉を宣言する役割を果たした。

無条件降伏を要求するポツダム宣言には、軍事的・統制的(人権抑圧的)な政体の変革、そのための民主的な憲法制定の義務が含まれていたため、GHQの啓蒙主義的・社会契約論的な憲法改正草案を下敷きにして、日本政府が改正草案を完成させ帝国議会で審議し可決した。

戦争被害によって家族や家屋、財産を失って悲惨な状況にあった当時の国民、満州国や戦地からの引き上げの過程で途端の苦しみを味わった人たちの大半は、敗戦によるそれまでの信念・目的の挫折(大本営発表の虚構性への憤り)を味わいながらも、憲法9条の『平和主義・戦争放棄』を好意的に受け容れた。

戦争の被害や危険は、『外国からの攻撃・侵略・謀略』だけによってもたらされるものではなく、むしろそういった仮想敵の危機や難局打開の好戦意識を煽る『自国の支配体制・貪欲な権益追求・教育内容・軍国主義・国民の兵士化(近代国家の戦争機械としての側面)』からもたらされることが多いことを、敗戦時の日本国民は自らの実体験を踏まえて感じ取っていたからである。

国家権力が国策としての戦争を遂行できない、国民が強制的に徴兵されない、勇敢な兵士・忠実な臣民を理想とする軍国主義(戦時動員体制)が再燃しないという憲法9条は、現在では当たり前のものとして恩恵が感じられにくくなったどころか、逆に『平和主義が無抵抗主義のように受け取られて外国に舐められる・憲法9条が国防を危うくして外国に侵略される・軍事力には同等以上の軍事力を持つことで抑止力を形成すべきだ・軍事的威圧を与えられない憲法9条が日本を骨抜きにしている』といった改憲派の批判の標的にさえなっている。

グローバル経済の進展による『国家間の貿易・資源・市場の相互依存性』や『文化交流(民間交流)・トップ会談・普遍的人道的な理念による相互理解』によって、日本・アメリカと中国が全面的に軍事衝突する可能性はまずない。だが、『経済・文化・生活のレベル』よりも『軍事・暴力(喧嘩)・理念のレベル』だけで国際情勢や外交を考える人は、仮想敵に設定する中国・北朝鮮が憲法9条があるために(すべての経済利益・国際社会の信任・国民生活の維持・事後の体制の持続性を捨てて)核ミサイルで不意討ちしてくるかのような恐怖心に囚われることもある。

憲法9条に関する根本的な誤解として、現状の解釈改憲でさえも『集団的自衛権』が行使できるという識者がいる状況なのに、9条が外国からの先制攻撃に対して防衛して反撃する『個別的自衛権』までも放棄しているという誤解がある。攻撃されても一切反撃できないとか、無抵抗主義で殺戮されるとかいう間違った条文解釈が為されていることも少なくない。

そもそも、現時点で日本国憲法が忠実に守られているわけでもなく、『解釈改憲による行き過ぎ(集団的自衛権・紛争地帯への自衛隊派遣が可能とか)・人権規定の違反の黙認』があるのに、『改正された憲法条文』であれば現実と条文を完全に一致させられる(今のような解釈改憲による行き過ぎはもう起こらない)というような無根拠な自信がどこからくるのか甚だ疑問である。

平和主義と戦争放棄(軍隊の不保持)を最高法規である憲法で掲げていても、実際には自衛隊は相当な戦力・規模・予算と活動範囲を持っているのだから、その抑制を緩和すれば現実は更にそれを逸脱したものになっていく(規模も予算も活動範囲もより大きくなっていく)と推測するのが妥当だろう。

自国の存立と自国民・領土の保護を実現するための『個別的自衛権』は、原理的にも道義的にも否定することができない『自然権』の一種である。現行憲法の下でも外国からの先制攻撃・侵略・殺傷に対して『自衛のための反撃(相手の侵略意図のある兵力・軍事力の無力化と追い返し)』は十分に可能であり、そのことを事前に攻撃姿勢を明確にした相手国に当然の自衛権行使の可能性(宣戦布告・攻撃開始・被害の発生があれば必要な自衛措置・反撃を講じる)として通達することもできる。またPKO・人道復興支援などで海外派遣された自衛隊員が、自分の身を自分で守れないような武器使用の規制がかかっているという批判もあるが、それは憲法改正の問題というよりは『自衛目的のための武器使用要件の緩和』という個別立法措置の問題である。

96条に定められた憲法改正の発議要件を『両院議員の3分の2以上』から『両院議員の過半数』にして、憲法を改正しやすい基盤を整えるという自民党の改憲方針も出されているが、『両院議員の3分の2以上の賛成』を必要とするのはアメリカもフランスも同じであり、特別に日本国憲法の改憲のハードルだけが高いわけではない。

日本の場合は更に『国民投票』があるからハードルが高いという主張もあるが、そもそも欧米先進国と全く同じ要件である『憲法改正の発議』さえ行われたことがないのだから、『国民投票のハードル』にまで行き着けない現状を直視しなければならない。改憲のハードルが高い低いの以前に、『国民が選出した国会議員のレベル』で、特定の条文の改正が必要という意志がまとまっていない、まとめることができないことのほうが問題なのである。