山口県周南市金峰(みたけ)で発生した『5人殺害放火事件』について。

山間にある人口数十人の小さな集落で起こった異常な連続殺人放火事件である。『閉鎖的な集落内部』の濃密な人間関係とそこからの疎外感・怨恨感情によって引き起こされる大量殺人事件(コミュニティ破壊型犯罪)は、明治時代の津山事件(岡山県)をはじめとして過去にも起こったことがあるが、『地域コミュニティ・近所づきあいの希薄化』が進む現代社会、特に都市部では珍しくなった型の犯罪ではある。

<山口5人殺害>「悪口言われる」不明の男、警察に相談

親や祖父母の世代から地域住民がずっと固定されているような田舎の集落では、数十年前までは自分の家と周囲の家との境界線は弱く、みんなが助け合うべき家族といった『村落(農村)共同体の名残』を残していただろう。お互いの家族の顔も名前もそれぞれ何(どんな仕事)をしているかも、結婚しているかも全て筒抜けのような関係があり、『集落内の相互評価(悪くいえば相互監視)・噂話』が住民たちの行動選択を無意識的に拘束しており、プライベート(私的領域)を保った都会的生活などはしたくてもできない環境である。

閉鎖的な小さな集落(顔・名前をそれぞれが小さな頃から知っている集落)では、『集落の協力的な一員』として承認されていなければ居場所がなくなりやすいが(陰口・噂話などで精神的に追い詰められやすいが)、『集落のルール・慣習・役割分担』に違背することでかつては村八分のような制裁を科されることがあった。

現在の村落ではさすがに昔の村八分のような制度的な制裁はないと思うが、数十人程度の住民しかいなければ、『集落の人間関係から外される・疎遠にされる(あるいは自分のほうから付き合いが悪くなり偏屈・排斥的になる)』というような事態は当然考えられる。

この事件の63歳の容疑者男性の場合は、『集落から意図的に排除されて悪口を言われた』というよりは『自分から攻撃的・偏屈な性格になって周りが遠ざかっていた(怖がられるようになってしまった)』というのが実情に近いように思われるが、容疑者はずっとこの集落に住んではおらず、40代頃になって実家があるこの集落に戻ってきたというのも『田舎独特の近所づきあい・しきたりへの馴染みづらさ』に影響していたのかもしれない。

2011年の元日に1人で警察署に訪れて、『集落で悪口を言われて、孤立している』と相談したというが、『都市部での無縁化・孤立化』と合わせて『地方農村部での無援化・孤立化』には、周囲が親密な付き合いや雑談をしている中で、自分だけが仲間外れにされてバカにされている(ひそひそと悪口を言いふらされている)という型の被害妄想(妄想ではないケースもあるだろうが)を悪化させやすい環境的要因もある。

いったん集落の外部にでてから働いていた人が、数十年後にその集落に戻るというのは、元々その田舎での人間関係が上手くいっていて自分のほうも積極的に地域活動に関わる姿勢がなければ難しいようには思う。

『集落との人間関係の緩衝地帯』であった両親が相次いで亡くなったことで、余計に集落内での自分の居場所やコミュニケーション機会がなくなってしまったと推測されるが、『孤立感・疎外感が生み出す被害妄想(周囲が自分に故意に嫌がらせをしているとか自分を笑いものにしているとかいった類の妄想)』というのは、都市部でも農村部でも(アメリカでは学校内でも)無差別殺傷事件を引き起こす容疑者に多く見られるものである。

こういった事件を事前に予防するのは、『周囲の人がわざと無視・排除しているケース』を除いては難しいだろう。また、『容疑者となる人物本人が他人を寄せ付けない攻撃性・暗さ・偏屈さ』を持っていることも多いので、ただ周囲の人たちがフレンドリーに接して仲間に入れてあげれば良いというだけでは解決しづらい。

軽度の被害妄想そのものは対人関係の改善や生活環境の好転によって収まることも多いが、『他者と良好なコミュニケーション機会のない孤立状況』では、精神病理的な被害妄想の亢進(悪化)が見られやすく、他人を逆恨みするような感情が強まりやすい。前近代社会あるいは近代初期には『閉鎖的な農村共同体』で起こりやすい型の事件だったが、現代においても『孤立感・屈辱感を伴う被害妄想』については早期発見と早期のメンタルケア(対人関係療法的アプローチ)が必要になるだろう。