『特定秘密保護法』によって守られる情報や事実の秘匿性は、

“結果論としての国民の利益・公共の正義”に適っていなければならない。特定秘密保護法は日本版NSC(国家安全保障会議)の創設とセットになった法案であり、『安全保障分野に関連する機密性』を守ることで、『軍事・テロ・防諜・外交・同盟国の信頼』などの利益を得ようとする目的を持っている。

<特定秘密保護法案>秘密文書残らぬ恐れ

『防衛』『外交』『防諜』『テロ対策』の四分野の情報が、最長5年間の特定秘密指定の対象となり、その秘密を漏洩した政治家や公務員、(省庁と契約を結ぶ)民間業者は最長10年間の懲役刑を受ける可能性がでてくる。

公務員や政治家に特定秘密情報の漏洩を呼びかけたり誘導したりする行為も処罰の対象とされるため、『取材行為・報道の自由』が萎縮してしまい、実質的に報道の自由が制限されてしまうという危惧もでている。

一方で、日本版NSCが承認する範囲での小出しの情報公開は許されるため、『記者クラブ的な政権への寄りかかり(情報を得るための付和雷同)』が生まれて、政権の不正な意図や外国との密約の問題、秘密外交の影響などを暴いて国民の審判を仰ぐような本来のジャーナリズムの機能が失われ、『国家権力の公認情報』しか当該分野について流通しなくなる可能性もあるだろう。

そもそも『公文書管理法』でも首相権限による文書の隠蔽・廃棄が容認されているのは問題であり、『特定秘密保護法』においては首相どころか担当省庁の裁量で文書を隠蔽・廃棄できるというのは『国民主権の民主国家』では論外のいい加減な規定である。

事後的に当時の政権の判断をすっとぼけるような行為に逃げ道を許し、歴史的な事実を後から修正するような問題(沖縄密約問題のように米国の公開情報からバレバレなのに知らぬ存ぜぬの横車を押して恥じないという問題)が出てきてしまう。

戦前・戦時中の日本の行政判断や命令の通達に関する歴史検証にしても、旧日本政府や軍部、官僚、関係者が占領軍からの事後的な断罪を恐れて『膨大な公文書』を焼却処分したことなどで、現在の時点から過去の行政判断を正確に再検証することが困難になっている。

場合によっては痛くもない腹を探られることにもなりかねないので、『現時点で都合が悪いように感じる秘密』でもきちんと文書として保存し、一定期間が経過すれば国民に公開していくくらいの姿勢(結果として国民のためになる正しい判断をしたのだから誰に恥じることもないという為政者としての責任)が必要である。

永遠に機密情報を闇に葬ってしまえるような、関係者以外の誰にも絶対に知られない(第三者からの審判や検証を完全に不可能にする)ような『特定秘密』というのは自由民主主義国家ではその存在を許されず、『公文書管理法・特定秘密保護法』の上位にあって情報公開のあり方を規律する新たな『国家機密に関する情報公開法(30年とか50年とかの期限を区切ってからの情報公開の義務付け)』をセットで国会に提出すべきではないか。

ジュリアン・アサンジのウィキリークスが国家機密や国家の秘密契約、密談の内容を次々と公開暴露して国際社会を動揺させたこともあったが、『情報独占による支配権力の安定』というのはネット社会の発達や国民の知的関心事の拡大によって維持することが困難になっている。

『少数の知っている者たちだけが決める政治のあり方(情報寡占と法律制定・密約締結による国民の運命や利害の支配)』そのものの正当性、権力独占のあり方が段階的に変革の圧力に晒されていく定めにあるとも言える。特に日本も含むアジア地域では、『依らしむべし知らしむべからず』の儒教的な知識・情報の独占と大衆の馴致・誘導があり、歴史的思想的に強固な身分階層の違いを意識させてきた権力構造(権力層の根回しによる密室合議制)が、『民主主義の形骸化・情報公開度の低さ』という問題を維持し続けてしまっている。