京都府八幡市の18歳少年の危険運転が招いた集団登校事故

自動車の運転をする時には、『危険運転(無謀運転)』をしないように『不注意・眠気や体調異常』によって事故を起こす可能性を念頭に置いて、歩行者や自転車、他車にぶつからない(ぶつけない)ということに最大限の注意をしなければならない。

京都集団登校事故:逮捕の18歳少年、ドリフト走行か

無謀運転の果ての自動車事故は自損事故で自分だけが死亡したり障害を負うならまだしも自業自得だが、他人の生命・健康を奪って補償(原状回復)できない罪を負ったり恨みを買う可能性があるため、『自分本位の運転(自分が勘違いして運転技能が高いとかカッコイイとか思い込んでいる制御困難な状態下での運転)』というのは本来、他の人も利用する公道では許されないものである。

京都府八幡市で集団登校する小学生の列に突っ込んだ自動車事故について、免許取得したばかりでフェアレディZのようなエンジン性能の高いマニュアルのスポーツカーに乗ること自体が間違っているという意見もあるが、この事故は『車のトルクや馬力といった動力性能の高さ』によって引き起こされたものではなく、『(レース用途の道路ではない)一般道における急発進とカーブへの高速での進入という間違った下手な運転操作』によって引き起こされたものである。

公道で急発進してタイヤを空転させたり、カーブで後輪をわざと滑らせたり、他車をきわどいタイミング(ウインカーも出さないような危険な車線変更)で抜いたりするような走り屋の漫画に出てくるような運転を『自分の運転技能の高さ(他のドライバーと異なる運転の個性)』と勘違いするような人は、その時点で事故を起こしていなくても遠からず事故を起こすリスクが高い。

公道では特別に目立ったり浮き上がったりする運転をするのではなく、周囲の安全確認を怠らず適切なスピードで普通に運転することが何より大切であり、急発進急ブレーキ・歩行者を驚かせる高速運転などの『目立つ運転』というのは逆に運転が下手で危ないということにもなる。

通学路や生活道路で、タイヤが鳴くような急発進やカーブでの加速をして歩いている子供・高齢者が振り返ったとして、それは『運転が上手で凄い・あんなに飛ばすなんて恰好いい』と思って振り返っているわけではなく、『事故を起こしそうで怖い・安全運転の技術がなさそうで危ない・歩行者や周囲の状況をちゃんと見ていないのではないか』と批判的に思われているだけである。

若い頃、一緒に同じ車に乗ってみて危ない(安全確認が不十分・極端に飛ばし過ぎ・気忙しくて落ち着きがない)と感じる運転をしているにも関わらず、自分の運転の危なさ(周囲の人・車に与えている危険性)をまるで認識していない人は、大抵その後に何らかの事故を起こすというのは経験則として大きく外していないだろう。

そういった人は、家族や友人が親切な老婆心から『運転の仕方や安全意識の持ち方を変えたほうがいい。事故を起こしてから後悔しても遅い』と助言しても、大きな事故を起こして大怪我をするか人を死傷させるか、愛車が廃車になるかまでしないと気づけないことも多く(実際の経験としての痛みやペナルティ、他者からの恨みがあるまで合理的な予測が働かないもしくは実体験があってもなお運転姿勢を改めない)、元々の気質・性格の影響もかなり強いと思われる。

免許取り立ての若者が、大勢の友達を乗せて死亡事故を起こすというパターンもあるが、人を多く乗せるとおしゃべりや良いところを見せようとする格好つけで注意散漫になりがちで、夜間走行や高速走行ではわずかな注意不足で事故が起こりやすくなる。若い時には特に、一緒に乗っていて怖い思いがするような相手の車には乗らないほうが無難かもしれない。

地響きのするような異常な大音量でオーディオ(お気に入りの歌手・楽曲)を外に向けて聞かせている人も、『自分が思っているかっこいいイメージ』と『他人が思っているうるさくて迷惑なイメージ(自分の好きな音楽や気分が他人にも共通するという勘違いをしないで欲しい思い)』とのギャップが大きかったりするが、自分や他人の人生を破滅させないための車の運転では『自己の客観視(自分の車の動きが他人にどのように見られているか、どんな安心や不安を与えているか)』が何より基本になければならない。

京都府八幡市の集団登校事件の加害者になってしまった18歳少年の容疑者も、初めから『小学生の歩行者を轢いても傷つけても構わないという悪意』があったわけではないはずだが、『一般道での危険運転』は未必の故意で他人を死傷させる確率が十分あり、特に登下校の時間帯の道路などは意識していつもより減速したり歩行者を迂回してゆっくり避けるなどの気配りが求められるものである。

フェアレディZなどのスポーツカーは事故の直接の原因ではないが、18歳少年の加害者が持っていた『高性能なスポーツカー(高速運転の高度な制御)に対する肯定的なイメージ+そのイメージに合わせた目立つ運転をしたいとする欲求(一方的な自意識過剰)』が危険運転を誘発した側面はある。

『公道で求められる安全運転』と『サーキットでしか許されないような練習・運転』を身勝手に取り違えていたとも言えるが、どんな初心者であっても曲がり損ねることがまずないような緩やかな見通しの良いカーブで、こんな大事故を起こす時点で運転技能は相当低いわけで、仮に猛スピードで無事に曲がり切れていたとしても唸るようなエンジン音や地面を擦るタイヤ音が、通学中の子供達や他の歩行者に危険感・不安感を与えていただけだろう。

事故時のスピードは不明だが、50キロ程度で車が鉄製の柵を押し倒し踏み台にして数メートルも飛ぶとは考えにくい感じはある。左折前にある一時停止線で本当は停止をせずに(本人は完全に停止して一台をやり過ごしたと主張しているが)、前の道路から加速してかなりの高速でカーブに突っ込み、左に振れ過ぎてガードレールへの衝突を避けようとしてハンドル操作を誤った可能性があるように思う。

『自己の客観視』という点では、歩いている自分のすぐ真横を猛スピードで走り抜けたり(目の前をギリギリの間隔でドリフトで駆け抜けたり)、横断歩道で歩行者を強引に下がらせるようなスピードで突っ走る車がいたとして、その車を肯定的にカッコいいなどと評価する人はまずいないわけで、自分が目だとうとしてやっている無謀な運転が実際には自分以外の他者に評価されず不安に思われていることを認識し直さなければならない。

今回の事故について、京都府亀岡市の無免許の少年が『夜通しの無茶な運転の疲労・眠気(居眠り)』で集団登校の列に突っ込んだ事故を受け、集団登校の経路の追加的な安全対策を十分していても防げなかったという報道がされている。

だが、『危険運転・無謀運転・飲酒運転(ドラッグ使用者の運転)を原因とする事故』は加害者がそれをやめない限り、防ぎきることはできない種類のもので、ガードレールや道幅があるから絶対安全とは言えない。こういった悪質な未必の故意に基づく自動車事故ではない偶発的な過失の事故もあるので、交通事故死は昭和期と比較すれば半減するほど減り続けてはいるが、今以上に減らすには運転者の安全運転に加えて運転を半ば自動化するような技術革新の普及(現在でも急発進制御・衝突回避・バック時のモニタリングの自動化システムはできてきているが)が必要になるかもしれない。