『ヒマラヤのソロ』の登山哲学から見る現代社会と人間関係:孤独・自律・共助の境界を生きる

『山と渓谷(9月号)』の八ヶ岳全山縦走を見ていると、九州の山との『山域の広がり・景色のパノラマ度』の違いを感じる。誌面では4泊5日の行程のうち、観音平から編笠山・権現岳・赤岳までの前半のコースだけでお腹一杯だが、そこまでの縦走でも参考コースタイムでは片道8時間(往復16時間弱)なので日帰りはかなり難しいだろう。長いハシゴや岩場もあり、コースもそれなりに厳しそうな感じがする。

色々な方向から登れる山なので、美濃戸口からの人気コースだともう少し短い時間で登って帰って来れるみたいだ。八ヶ岳の高原トレイルである『霧ヶ峰・美ヶ原の中央分水嶺トレイル』は、景観が熊本県の阿蘇の『草千里』の高原にも似ていて、登山というよりも自然の中を歩く(走る)コースとして魅力的で、八島ヶ原湿原の牧歌的な眺めも良い。

霧ヶ峰北部の『美ヶ原』というのは標高2000メートル付近の360度の展望がある見晴台のような場所で、日本アルプスの山々を遠目で見るのに適したスポットか。総延長45kmもある『美ヶ原高原トレイル』というコースも作られていて、『三峰山・二ツ山・鉢伏山』のロングトレイルなど登山として登り応えがあるコースもトレイルに含まれているようだ。

坂下直枝さんの『冬のアンナプルナ漂流行』は1980年冬のアンナプルナ単独行の経験に基づく読み物としてスリリングだが、『世俗・他者との隔絶感』を求める山行というコンセプトは『現代社会での他者との距離感・集中的に燃焼させる生命感覚』について考えさせられるものでもある。

春・夏でも厳しい環境になるヒマラヤに冬場に登る、しかも右手を骨折して完治してない坂下氏の万全ではない調子・怪我のある状態で登ろうとするというのは、率直には『無謀・非常識な試み』である。現地ヒマラヤで高山ガイドに慣れている経験豊かなシェルパでも依頼を断ってくるような行為であり、一般レベルに合わせて考えれば『軽装で近場の1000~2000m級の登山道のある山』に登るよりも格段に危険度(死亡リスク)の高い行為とも言える。

だが、それまでのアルパインスタイルの山行経験や技術力を含めて、目標水準が極めて高度になってくると(4000~8000m級の海外の高山になってくると)そういったリスク判断・常識感覚が曖昧化してしまうのが人間の面白いところかもしれない。実際のリスクは『素人が近場の山に夏・秋に登る』よりも『経験のある登山家(プロ並の人)が高山を敢えてシビアな厳冬期に登る』ほうが恐らく危険度が高いが、後者の多くは『結果として死ぬリスク(慎重に行っても不可避な雪崩・遭難・滑落転落・クレバス落下などに遭うリスク)』を織込み済みという部分の違いはあるかもしれない。

僕も含めて趣味・娯楽・楽しみとしてアウトドアやスポーツをしている人は、『結果として死ぬリスク』を織り込んでまで高度なチャレンジはできないが、登山に限らずサーフィンでもモータースポーツでも何でも(平和な国から紛争地に敢えて行くような傭兵稼業も含め)、その一線を超えていく人というのは『自身の生と死の境界線(全神経・全力を投じなければ即死するしかない極限状況)』における生命の燃焼感や無駄(余裕)のない精神のソリッドな集中感覚に興奮を覚える気質なのだろうか。

アルパインスタイルの高山登山の本質は、自分自身で全ての計画を立ててそれに備えて必要なものを準備し、身体の鍛錬の裏付けと共に果断に実行するという事に尽きる。ある意味で『DIY(自律的生活サイクル)の極地』としてこういったヒマラヤ冬期登山・単独行は解釈できるわけだが、端的には方向性を決めてそれを実現するという『人生全体の縮図』を非文明的な自然環境(誰にも煩わせられない代わりに誰からも助けてもらうことを期待できない環境)において描こうとする突飛な行動原理に依拠している。

坂下氏は自身のクレバス墜落体験から、マルティン・ハイデガーの実存哲学でいうところの『本来性(死へと向かう必然的方向性)』の認識に至るのだが、文明社会・定型労働のシステマティックな反復の中で薄れやすい『生の実感』を、何によって回復させるべきかという終わりなき問いは、消費の享楽と共同体の互助に陰りが見えた物質文明の現代人にとってはなかなか切実でもある。

ゼロリスクを目指して法律や制度、機械が整えられていく現代では、『物理的・事故的なリスク』は過去と比べて格段に減っていっているが、『政治・法律・社会保障・機械・他者(世間)によってあれこれ管理されたままで費やされていく生』の圧迫感や空虚感は否応なく増しているようにも感じる。

自分の人生を生きているようで生きてはいないという感覚、綿密に整えられた政治的社会的システムの中に生まれながらにカッチリとはめ込まれて身動きができない(決められた通りの人生・労働を生きなければ困窮してしまう)という被管理者意識は、今後、国民総背番号制・源泉徴収型(負担増加)の社会保障強化によってますます強まり、生の実感と喜びを曇らせていく恐れが強い。

かつての母子密着の過干渉のように『社会制度から細かく守られているが故の息苦しさ(少しの落ち度やリスクテイクが世論によってバッシングされる安全至上主義の風潮)』が高まる一方で、『市場原理の冷淡さ・経済領域の切り捨て』によって日常生活に閉塞感を感じたり職業活動に前向きになれない人も増えている。

こういった閉塞感・負担感を精神的にブレークスルーする方策の一つとして、『世俗・他者との適切な距離感を取ること(政治・経済・他者だけに自分の人生全体や気持ちをすっかり握られてしまわないこと)』や『自分自身の独自の価値観・目的意識を確立して自律すること』があるのかもしれない。

坂下氏は『死を意識せざるを得ない環境下での生に向かう懸命な抗い・努力』に悪魔的に魅了されたことによって、アンナプルナの冬期登山に急き立てられていくが、著作の『ソロの条件』に書かれた彼の登山哲学めいたアルピニズムの叙述からは、『命懸けの創作行為としての登山』が浮かび上がっていてこういった登山の捉え方も面白い(実際にそこまで難易度・技術力の高い登山をしたいか否か、実際にできる体力・意思があるかどうかはともかく)。

『クライミングや登山という行為は、ある意味、絵画や建築の創作活動に似る。一つの山行は、過去や同時代のクライマーたちの影響や刺激を受けながら、自分の登山のスタイル、好み、思想を、山というキャンバスに表現した作品ともいえる。そして画家や音楽家の業績がそうであるように、一つ一つの登山は、一見独立した山行のように見えながら、その登山歴を一覧した時、そのクライマーの生き方や思想がはっきり浮かび上がってくることがある』

坂下氏がヒマラヤのソロの条件として上げたのは、『孤立無援であること』『他者からの絶対的な距離・隔絶性が保たれていること』の2つであったが、近代産業社会は『仕事の分業(職人意識の希薄化)・組織人(個人の弱体化)・社会制度(老後保障までの既定路線)の世紀』を招来して、自分で一つの仕事や生き方の全行程を担いながら納得しながら生きるということを難しくしてしまった。

どこにいっても他者がいて生まれながらに制度的な無条件の登録・保護を受けられるのが文明社会の恩恵(束縛)であり、現代日本では逆に『無縁社会のリスク(共同体の縛りの緩み)』が不安視されているのだが、その一方で現代の精神疾患や適応障害、対人トラブル(恋愛・婚姻の問題)の原因の多くは、『思い通りに動かない他者への依存・期待』や『影響力のある他者からストレスを与えられること』によって引き起こされている。

他者からの隔絶や別れを恐れて、相手の要求・願いを断りきれずにストレスを溜め込む人が多くいて、企業(雇用)や社会保障のシステムによって自分の生活・生存が脅かされているような被害感で苦しんでいる人も少なからずいる。

そういった隔絶・別れの恐怖からくる自尊心の傷つきからストーカーになったり自分を拒絶する他者を深く恨んだりする人もいるし、経済生活や雇用・社会保障からの脱落によって自分自身に価値がないように思い込んで塞ぎ込む人もいるわけだが、『他者との絶対的な隔絶感』を物理的に経験するということは、『他者に依存しなくても生きられる自己への自信』と『自分と関わりを持つ他者のありがたみ・感謝』を再確認するきっかけにもなるだろう。

孤立無援な環境や状況は『心細さ・絶望感』と隣り合わせでもあるのだが、『誰からの助けも期待できない状況』において自分に何ができるのかという能力・意思・選択の確認をシミュレーションしておくことは、ヒマラヤの吹雪に閉ざされた山の中だけで有効な話ではない。当たり前の日常生活(家族・恋愛)や仕事状況においても折に触れて、『自分ひとりとなった場合(今いる親密な他者と隔絶した場合)に何ができるか・どういった事から生きがいや活力を取り戻せるか』ということに対して想像力を培っておくことで『人生の複層性・予測困難性への覚悟』は深まる。

だが、個人のビジネスや発信力をエンパワーメントするウェブ社会が次第に進展すること、既存の雇傭・社会保障が崩れかかることと歩調を合わせるかのように、登山哲学に見る『自分の知識・能力・経験を駆使して生きる(他者・制度への依存とストレスを最小化する)』という選択肢に再び脚光が当たってくる可能性もあるかもしれない。

自分で自分の人生を生きていくという当たり前の感覚は、『孤独・不安』と『自由・充実』との背反する感情を呼び起こすが、『集団生活・社会制度・相互依存のメリットとデメリット』の勘案をしながら、他人との付き合い方や適度な距離感(密着し過ぎず孤立し過ぎず)を考えていく必要がある。

坂下直枝さんは『死の恐怖』と『生の充実』を対比させ、『孤独の恐怖』と『他者のいる安心』を並べることによって、片方の体験がもう一方の必要性を強調するバランスについて触れているが、前者の緊張感・集中力を失った後者(反復的な生・他者との縛り合い)だけへの固執・依存は『自身の無力感・生の無意味感・他人との感情的対立』に傾くリスクがある。

他者に頼ったり甘えたりすることは相手がそれを受け容れてくれる限りは悪いことではないし、人間は社会的動物として他者との相互依存的な社会を作り上げることで生存適応度を高めてきた種でもあるが、『自分一人でもできることの領域の拡大(孤立無援状況において揺らがぬ精神力)』や『全神経を投入できるような生命の燃焼感』というのはそれが簡単には得難いものであればこそ、現代において再注目したくなるコンセプト(自分の弱さ・依存と向き合いながらあれこれ考えさせられる概念)なのだろう。