“男が要らないと思う女が増える平和な時代”と“ジェンダーの差異が曖昧化する男女”:1

福岡伸一氏の『できそこないの男たち』では、生物学的に見た男性(オス)は、女性(メス)をベースとする個体に対して、『遺伝子情報の複雑性(環境変化に対する生存適応度の上昇率)』を与える触媒に過ぎない事を看破していたが、ヒトの男女関係は『恋愛(性と文化)・結婚(制度と育児)・経済(扶養)・権力(暴力)』が絡むことで非常に個別的で複雑な様相を呈することになった。

生命進化の歴史としては、『無性生殖』の段階ではメスの遺伝子情報の単純なコピーのみによって自己を複製していた生物が、メスの基本フレームからオスという別の性を分岐させて『有性生殖』ができるようになり、『環境変化に対する適応能力(遺伝子情報の多様性・選択性・突然変異率)』を格段に高めることになった。

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しかし、生命の基本フレームはメスの身体構造に起源があり、人間も受精卵からの生命の発生・細胞分裂のプロセスでは『女性的な身体構造』が先に形成されて、そこに男性ホルモンが作用することで『男性的な身体構造』へと分化していく。そのため、変異体であるオスは一般に基本型であるメスよりも平均寿命が短くて病気に対する抵抗力も低い、特に発生プロセスでの負荷や免疫能に対する影響がある乳幼児期には男の子ほうが病気に罹りやすい。

昆虫のような単純な構造の生物になればなるほど、メスはオスよりも優位な地位・立場を持っていることが多いが、これは『遺伝子多様性を増すための役割』という生物学的なオスの意味づけがより直接的であるためだ。カマキリのオスは交尾後に、メスの産卵のエネルギー源となるために自らの身体を食料として差し出して儚い一生を終えるが、食べられないにしても虫には授精後にオスが(メスも)死んでしまう種がいて、これは『育児の不要性(人間的視点からの親子関係の不在)』という昆虫の生態に見合ったものなのだろう。

有性生殖をするオスとメスの関係性が、メス優位からオス優位に転換する兆しは『オスとメスの体格差の逆転』によって生まれたとされるが、より単純な構造の動物・虫ほどオスよりもメスのほうが体格が大きくて、暴力(実力行使)によってメスが劣勢になる可能性は低かった。霊長類にまでなるとオスがメスよりも大きな体格と強い腕力を持つようになり、人類においても『社会的な動物としての集団単位での戦争・競争』が男性の体格を女性よりも大きくして、男性ホルモンによる攻撃性・支配欲を亢進させていったと推測される。

有史以来の人間社会は男性優位社会であると同時に、力と地位の優劣によって権益を増やしたり分配したりする男権主義(男を陽・女を陰として男が女を制度や財で囲い込む男根主義)によって運営された。

むろん、家庭内における裁量権・財産権やプライベート(個人的)な男女関係においては女性が優位に立つことも少なくなかったし、男性同士の権力・地位・財力の格差が大きい時代のほうが長く続いたが、一般的には『戦士・労働者となる男性』と『家事・育児の従事者となる女性』という性別役割分担は強められ、社会集団の枢要な地位と権力は少数の特権階級的な男性に占められる状況が続いた。

自分の好きになった男性と付き合ったり結婚したりするという行動様式や恋愛文化も、先進国で数十年~100年程度続いているだけのものに過ぎない面もある。日本でも昭和中期までは『親同士の取決め婚・義務的なお見合い結婚』のほうが多数派であったが、この時代には男性・結婚は『女性が生きていくために必要な存在・制度』でもあった。

現在でも中東・アフリカのイスラーム圏やインドの一部がそうであるように、『女性が自立可能な教育・仕事・権威を得ることを社会が認めていない状況』や『男尊女卑的な価値観が文化・慣習・規範として根付いている地域・集団』においては、広義の男性やその血族集団による庇護がなければ、女性は単独では生きていけないか極めて危険あるいは貧困な状況に追いやられることにもなる。父・夫・兄弟などは物理的あるいは経済的な庇護を与える後見人のような役割を果たしてきたのであり、夫はその女性を支配的に独占する代わりに外部の男性の暴力(性犯罪)や経済的な欠乏から守る義務を負ってもいた。

十分に教育や倫理、人権感覚(男女同権の意識)が普及していない治安も悪い時代・地域においては、『後見人を持たない女性』はそれだけでどんな暴力や被害に晒されるか分からず、『家庭への囲い込み』は男性(父・夫)による女性の支配の側面はあったが、無秩序や暴力、犯罪、貧困の多い外部社会の防波堤として夫あるいはその血族集団が機能するという意味合いも持っていた。

厳密に言えば、『法律・倫理・理性・人権(男女同権意識)が機能していない非現代的な野卑さや危険性(暴力による強制)に溢れた社会』においては、個人としての女性は、幾ら知性や弁論、職業能力、財力において優れていても、根本的に無頼・卑劣な男からの一方的な暴力に対しては『弱者』である他はない。そもそも経済力や社会的地位を得られる選択肢そのものが(一部の王族・名門貴族に連なる特殊な女性などを除き)伝統社会の規範によって塞がれていたこともあり、大多数の女性は『庇護者としての男性・一族』がなければ安心して子供を産み育てたり、外敵や貧困を恐れなくて済む人生をまっとうすることが現実として不可能だった。

生物としての生存適応度の観点からすれば、男性(オス)は『遺伝子の多様性』を高めるための触媒として女性(メス)から分岐した性であるが、自意識と腕力を獲得した人類の男性は生殖適応度を高めるために『男性同士の女性(生殖機会)と資源(土地・物質)を巡る競争』を激化させていき、男性はより戦争や競争、進歩に適合した攻撃的な本能を高めていった。これは、強さや攻撃性、勇敢さ、支配欲、女子供を守るという『男らしさのジェンダー』を強化する傾向性を一層強め、次第に男権社会の規範と構造のほうが、その生物学的な性の起源に反して人間社会のスタンダードになっていった。

法治・道徳・理性・自尊心などが及ばなかったであろう石器時代前後においては、『暴力による女性の独占・支配』があったことは想像に難くないし、古代ローマの草創期の伝説に戦争で滅ぼした部族の女性を誘拐したエピソードなどが残るように、古代の戦争は『男性の奴隷化・女性の妻妾化(部族の混血)』を伴うことが常であり、男性の暴力と戦争の強さ(敵と戦う荒々しさ・勇敢さ)、敗者の奴隷化(自由意思の剥奪)は『罪』であるよりも『徳』であった。

強い者が勝ち、弱い者が負けるという自然選択的な摂理は、近代初期に至るまでは受け容れるしかない現実原則のようなものであった。共同体主義(自民族至上主義)は『内の味方』と『外の敵』を区別して、外の敵を倒して奪い取ったり従えたりすることを必ずしも『暴力的な悪事』とは見なしてこなかったし、土地・資源を奪い合う戦いやいがみあいを常態と見なす世界観(人間観)もかなり強かった。

これは逆説的に、暴力的な戦いやいがみあいが常にあればこそ、『暴力的な戦い』に怯まずに参加できる勇敢な男性に女性以上の価値があるとする男権社会の根本理念を補強していた。『暴力の戦争』から『経済の競争』に移行してもなお、男性が中心的な労働力(家計を支える稼ぎ手)としての地位を占め続けることでその対妻子(対女性)の権威を維持することができたが、『肉体労働の需要・対価』を『頭脳労働の需要・対価』が超えてしまったことで男女間の労働における優劣は性差よりも個人差がモノを言いやすくなった。