“男が要らないと思う女が増える平和な時代”と“ジェンダーの差異が曖昧化する男女”:2

人間社会の歴史的推移を見渡せば、戦乱が多くて貧しい時代(理屈・正論を言っていられない力と勝ち負けの時代)には『男性原理』が強まり、平和が続いて豊かな時代(理屈・正論が検証されやすい知と倫理の時代)には『女性原理』が強まる傾向がある。古代ローマ帝国でもその成熟期には女性原理が強まって少子化が進んだという記録があるが、女性の発言力や自由意思、稼得能力が強まると『性別役割としての出産・育児の義務』が弱まるので、一般に男性社会よりも出生率は低く推移しやすい。

『広義の暴力(戦争)・暴言』が法律と倫理、自尊心で禁圧される現代という特殊な時代環境においては、他者を暴力あるいは実力で打ち倒そうとしたり、勇ましい自分を誇示したりする『男性性・男らしさ』を発揮できる場面は、経済競争や見せかけの肉体(筋力)に限られてくる。

そのため、男性主義的な過去の共同体原理や男女の役割分担に郷愁を寄せる人たちは、常に『戦うべき外敵の存在や侵略の危機(女子供を守る男らしさとしての腕力を発揮できる場)』を求め続けていたりもするが、これは裏返して考えれば『物理的な暴力の危険性』が十分に低ければ、伝統的な男性ジェンダーの中核にあった勇ましさ・逞しさ(いざという時の暴力による防衛)の必要性も弱まってしまうことを意味する。

暴力(武力)によってしか解決や防衛ができない種類の問題がなくなれば、男性原理は女性原理にその場を譲る他はなくなるし、『男らしさに特有とされてきた正義・防衛のための暴力(これも自分・自民族以外の男の暴力であって男同士の争いになりがちだが)』を専売特許とするような政策や文化、価値観の形成も難しくなっていくだろう。

暴力・武力が時に正義や武徳として賞賛されてきたのは、『自分たち以外の不当な暴力・武力の存在』を想定することができるからであり、軍事力強化の必要性を情緒的に説く文句には『外国から侵略されると自国の女性が性的に蹂躙されてしまう』といった外部の男の暴力性・強姦性をことさらに強調するものも多い。どう間違っても、『外国から侵略されると自国の男性が性的に蹂躙されてしまう(労働力として奴隷化されるなどの主張はあるが)』といった文句にはならないところが、本質的な男女のジェンダーの差異というか教育・文明・倫理によって制御されている『潜在的な男性の暴力性(性の衝動性)』を暗示しているのだろう。

自然・本能・性選択が男性性の一部として付与した暴力(実力によって敵を制圧したり身内を守ろうとする傾向)は『法と倫理で管理された豊かな文明社会』では概ね持て余されることになりがちだが、闘争本能が凶暴性・威圧感にまで高まってしまうと、文明社会に適応できない粗暴者や犯罪者になってしまうこともある。

なぜ現代では『男は要らない』というような過激な論調がでてきやすいのかというと、平和かつ安全で男女同権意識が普及した豊かな社会では、『戦争・ハードな労働の担い手としての男性の必要性,結婚や出産を義務とする家主体の価値観』が弱まるからで、『男性と女性のジェンダーの差異』が曖昧化してくるからでもあるだろう。

男性が求める女性像と女性が求める男性像は相互に共鳴し合うが、『扶養・防衛の必要性(経済的に養われて物理的に外敵から防御される)』が弱まれば、恋愛における相手への影響力は一般的に女性のほうが強まりやすく、『伝統的な男らしさ』以上に『人間的に好まれたり尊敬されたりする特質(一緒にいて楽しかったり安らげたりするかどうか)』のほうが優先されるだろう。

無論、現代にまで残る男性の男性らしい行動様式や価値観、振る舞いなどは、女性がそのような男性を選択してきたという『性淘汰の結果』も影響しているわけだが、それは『暴力・貧困(飢え)・女性差別から自分や我が子を守るため』『男性社会における家族形成の中でベターな配偶者選択をする』という動機づけも大きく関係していたため、『人間的・心情的にそういった男性が好きか否か』が過去において最優先されて性選択が行われたケースばかりではないだろう。

平和で豊かな時代が長く続くと、女性の権利・自由は強まる傾向があるが、人間が有性生殖をする動物である以上、『存在としての男全体は要らない』とまでは言えず『女子供に危害や抑圧を加える男は要らない(暴力性が犯罪性に転換してしまう男は要らない)』ということになってくるだろう。

これは男と女を入れ替えても、『男に危害や抑圧を加える女は要らない』という主張は成り立つはずではあるが、生物学的な男性ホルモンや脳機能、身体能力(筋力)、男性主義的な社会の価値観の影響から、男性のほうが女性よりも『異性に対する暴力(性犯罪含む)・束縛・執着をしやすい』という統計的な傾向が強いため、『経験主義的な男は要らないといった話』に説得力が生まれやすい面はあるかもしれない。

管理された平和な文明社会では、女性と対等な立場からアプローチして付き合わなければならなくなった男性が、脆弱な自尊心や暴力的な衝動・葛藤を持て余してしまって、『DV・ストーカー・別離の拒否による加害・性犯罪』に逸脱してしまうケースが、残念ながらひっきりなしに起こっているからである。

しかし、女性にものすごい多様性があるように、男性にもものすごい多様性があるわけで、『平均的・生物学的・進化的な男女の傾向性』だけでは語れない『個人としての魅力・面白さ(男や女としての魅力を再確認できるような人との出会い)』があることも事実である。

『経験主義的な男は要らないの説』の場合には、『自分が付き合った男の質が悪かっただけの可能性』や『男性が女性を全面的に養い守るべきという伝統的ジェンダーに自分が影響され過ぎていた可能性』も含まれるため、男は要らないという説については『個人的な経験談』よりも『生物学的・歴史的な男の暴力性』に焦点を当てた説のほうが普遍性があるだろう。

しかし、『男の暴力性と相関する勇ましさ・積極性(開拓欲求)』にしても『男の女に対する独占欲・執着心』にしても、男性の一方的な女性に対する支配欲の積み重ねによって作られた本能というよりは、妊娠以後にも自分や子供を長期間にわたって守り支え続けて欲しいという女性側からの選択圧によって形成された本能としての側面もあると思われる。

そういった男らしさが弱まっていくと草食系男子や女性・家族への持続的なコミット(協力・貢献)の弱さといった別種の問題が生まれてくるのではないかとも思うが、現代では『双方の合意による恋愛・結婚+人間関係における暴力による強制や脅しの禁止』という前提を理解できず、自分の思い通りに動いてくれない相手に対する衝動・怒り・苦悩に流されて犯罪を犯してしまう身勝手な一部の男が問題なのだろう。

男性がいなくなって女性だけの世界になれば、戦争や粗暴犯罪がほとんどなくなるといった極論も散見されるが、『資源の有限性・他者との特別な関係へのこだわり』があれば、形を変えた精神的な暴力やせめぎ合いのようなものはやはり残るだろうし、物理的な暴力が激減した世界では余計に精神的な暴力(集団内での影響力争いとか仲間外しとか)の痛みが重く感じられるようになるだろう。

この記事は、『前回の記事』の続きになっています。