“消費税増税・低所得者対策(軽減税率・給付金)”と庶民の暮らしの負担感:2

有り得ない前提だが、物価据え置きで全員の給与だけがグンと上がると、『お金』と『時間』の価値が完全に逆転するだろう。生活が楽にできるだけの一定以上の収入になると、その金額の差異や格差感には実質的な意味がなくなる。ここまで極端ではないにしても、現在でも労働時間の拘束・負担に照らして収入が少ないという問題は深刻になってきている。

○“消費税増税・低所得者対策(軽減税率・給付金)”と庶民の暮らしの負担感:1

そうなると社会全体の労働供給が減る代わりに、『個人消費』が逆に強くなりすぎて、ディマンド・プル型のインフレがエスカレートしていき、結局、みんなが物を買えないような異常な物価上昇に悩まされることになる。

その意味では、最近言われている『個人消費の落ち込み』というのも、半ば必然的な市場原理の結果であって、『個人消費の異常な強さ(みんながプチセレブになってどんどん物・サービスを買おうとして働く時間を惜しみ始める)』のほうがハイパーインフレや労働供給不足(キャリア・スキルの停滞による社会全体の技術水準低下・チャレンジする経営者や技術者の枯渇)という経済破綻のリスクを織り込んでいる。

生産コストや労働力の再生産を含む市場原理は『すべての人が楽に買い物ができる物価水準を許さない=楽に買い物できると供給不足が起こり必然に値上げし始める』からであり、資本主義経済で社会が運営される限り、『庶民の暮らしの負担感が特別に軽くなるという事態』は有り得ないというか、『お金をある程度苦労して稼いで簡単にはポンポン使えない状態(お金にはみんなが出し惜しみする程度の価値があるという共同認識)』を維持するルールを前提にして経済が回されているのである。

逆に、紙幣価値というのは政府の信用に基づく幻想の数字なのだから、『額面の給料の数字だけ上げれば良い』のであればいくらでも上げられるが、『それ以上の物価上昇のインフレ』によって給料の上昇分が相殺されてしまうだけで意味がない。物価水準というのは『庶民の生活が楽勝(衣食住の負担感が殆どなくて贅沢・娯楽にいくらでも使える状態)にはならない水準』でしか動かないように出来ている。

消費税の『低所得者対策としての生活必需品の軽減税率』の話から外れたが、政府・関係者は『軽減税率』よりも『住民税非課税世帯への給付金支給』を支持しているようだが、これは明らかに『高齢者世帯(年金生活者)の優遇策』である。

しかも給付金の金額が年間1万円という雀の涙であり、給付金の額1万円は低所得者が食費にかける費用を年間わずか18万円(1日500円)として計算しており、3食を500円で済ませるなどあまりに非現実的であるか非人道的な前提である。マクドナルドでセットを食べても500円くらいは使うし牛丼屋でも同じで、3食を500円というのは少量の米と味噌、ふりかけだけで食べ続けるような荒行であり、野菜・果物なども摂取できないので栄養学的にも体調を壊すのではないか。

安倍政権が日本人の低所得層の最低限度の生活水準を、1日500円で3食を食べる水準に置いていることが分かったという意味では考えさせられるものがあるが、そういった1日500円の食事で切り詰めている人たちからも消費税を追加的に徴収しようというのはどうなのか。

そもそも、大半が住民税非課税(年金生活者・生活保護者・シングルマザーなど)ではないワーキングプア・若年層に対する経済支援策が皆無というのは『低所得者対策の政策』の意味を為していないのではないかと思うし、『軽減税率を除外する消費税増税』の本質は、所得税を取れない人たちからできるだけ多く徴収したいという以上のものではないのだろう。

オフショアのタックスヘイブンや企業の生産拠点の海外移転などによって、企業や高所得者層への徴税に及び腰になってきた国家・政府の税制は消費税・物品税のような『間接税』を主体にしたものにならざるを得ない流れにあるが、現役労働者を生かさず殺さずに持っていく前時代的な苛烈な税制に戻ることがないことを願う。

経済はアドミニストレーターやインベスターのような企業経営の上層・資本だけで維持できるものではなく、割安な労働力を大量調達できる『海外の第三世界』も、中国で人件費高騰や労働デモ・労働争議が起こってきているように、(未開のアフリカ諸地域はあるが)次第に無くなろうとしている。