安倍首相の靖国神社参拝と国体・天皇に対する絶対的忠誠の道徳1:日本でなぜ本格的に近代史の授業がしづらいのか。

政治家の靖国神社参拝に特別な意味づけが為されやすい理由は、『国家神道・軍国主義・天皇崇拝と忠君愛国・ファシズム(拒絶困難な同調圧力)との密接な歴史的関係』があり、日本人が徴兵されて戦死することを正当化する(忠義の国民か卑怯な非国民かを踏絵のように識別する)『政教一致のイデオロギー装置』として機能した過去の呪縛的な重みがあるからである。

1930年代半ばからの戦時中の一時期の日本は、『軍国主義』であると同時に、記紀神話・天皇制を国体の本質とする宗教国家』であり、天皇は皇祖神(ニニギノミコト)の後胤である『現人神』なのだというフィクションを史実として真剣に信じる国民も少なくなかった。

少なくとも、天皇をただ天皇という歴史的な肩書や身分を持った普通の人間の一人なのだという意識は、多くの国民には無かったはずで、『天皇の意志』を勝手に都合よく忖度することで政治・軍事の判断に権威的な正当性を加えた政治家・軍人(虎の威を借る狐)が多かったのである。天皇陛下の御意志に逆らうのか(天皇陛下の指揮する皇軍に対して統帥権干犯をするつもりか)という一言は、軍部が戦争の決定や軍事予算の増額を行う場合の決め台詞でもあった。

厳密には、主権者である天皇と家臣である全国民という『精神的・象徴的な君臣関係』が生きており、『私は天皇の臣民ではなくその命令に従わない』という自意識・活動が反乱(謀反)と見なされたという意味において、昭和10年代以降の日本の国家観や政治体制は『民主主義・自由主義・権利思想』からは遠かったし、村社会的な厳しい相互監視体制に置かれてもいた。

大正デモクラシーの流れは、世界恐慌による経済の崩壊・農村の荒廃を受けた大衆の右傾化と将校のテロによって概ね断絶させられ、『政党政治の腐敗・資本家の私腹・農民と労働者の貧窮』に激昂する大衆は、天皇崇拝と軍部への協力姿勢を『国体明徴の機運』の中で強めていくのである。天皇と軍は権力機構の中でも経済的・利権的に潔癖(庶民寄り)と見られていたところがあり、自分たちの金儲けだけを考えている強欲な奴らと見られていた政党人・資本家などよりも庶民に人気があった。

皇軍の戦死者が英霊になるという靖国神社の教義も、現代的なフィクションというよりは宗教教育の影響を受けたリアリティを伴うものであり、日本国民全体の家長である天皇のために死ぬことを義務・名誉とする『道徳教育』と切り離して考えることはできない。

現代の日本の首相が靖国参拝をするのであればこの『当時の道徳教育・天皇中心主義(国体思想)の自分なりの咀嚼・解釈』にまで踏み込んで不戦の誓いを述べるくらいの覚悟がいる。

なぜなら、戦前特に1930年代からの日本の道徳は、『天皇・皇室への死をも厭わぬ忠義(君臣秩序・国体護持の国体明徴)』によって貫かれていたのであり、靖国神社に葬られて神となった軍人たちはその宗教的な道徳を信じて国体に忠義を尽くして死んでいった(中には本気で信じていなかった人もいるはずだがそういった建前になっている)からこそ、『英霊』として公権力(天皇・官の側)に顕彰されている。

300万人以上の日本人の兵士が、当時のファシズムの同調圧力や国体思想の教育・吹入、無謀な戦争の作戦立案(ロジスティクスの欠如)によって死んでいったが、その多くは敵国と実際の戦闘を戦うこともなく、病気・飢餓で虚しく死なざるを得なかった。

A級戦犯の倫理的・道義的な責任は、ミッドウェー海戦の敗北以降は、大局的な勝利の可能性がなくなった事が明らかであるにも関わらず、日本人の兵士及び大衆の生命を無闇に浪費させ、投降も許さずに自害を強いながら、いたずらに国体護持の保障を得るために降伏を先延ばししたことにある。

A級戦犯の軍人の一部は、国民が一人残らず死ぬまで徹底抗戦すべしという『一億玉砕の本土決戦・天皇の松代大本営への移転(残った日本人でのゲリラ戦継続)』を主張するなど、天皇制の死守以外には、国民の生命や人生、生活などをまったく気にかけていない狂信的な姿勢を露骨に示してもいたことから、いくら戦争責任としての切腹・自害をしたとしても到底贖いきれるものではなかった。

日本の歴史教育ではなぜ近現代を詳しく教えることができないのかは、『自虐史観・敗戦のトラウマ』というよりは『天皇主権・七生報国・玉砕称揚の宗教国家体制とそれを支えた思想・国家観・人物・教育』を教えれば、必然的に『天皇制と戦争・道徳教育・忠義との深い関係』に踏み入っていくことになるからで、世俗的な明治維新・民主的な大正デモクラシーから狂信的な1930~1945年までの昭和期の日本(天皇崇拝・時代逆行の国体)の劇的な変化の説明がなかなかに難しいからである。

結果、今上天皇の温厚篤実な人格と勤勉な国事によって固められてきた象徴天皇制の望ましくない過去に焦点がいってしまうからということもあるが、昭和天皇は『田中義一首相への叱責・終戦の決断(この2点のみにおいて昭和天皇は自分の意志を明確にされたとされる)』以外では天皇機関説における名目上の立憲君主として振る舞ったこともあり、周囲のシンパと大衆による極端な神格化の被害を受けた面も当然ある。

現代でも道徳教育に慎重な教育学者や識者がいる理由の一端は、天皇を神(国父)として天皇のために献身し、いざとなれば特攻・玉砕も厭わず潔く生命を投げ出すことが、日本人としての最大の名誉・責務(皇恩への返報)なのだという苛烈な皇室尊崇の道徳教育のトラウマにある。