『善人』の増えた現代の先進国と『弱者への同情』を嫌ったフリードリヒ・ニーチェ:現代の善人の争いを回避する優しさ・弱さをどう捉えるか?

昨日書いたドラマ『明日、ママがいない』の記事では、『他者の不幸・苦痛に対する想像力や同情(共感)』の弱さによって、新たないじめ・差別が誘発されるのではないかという危惧について触れた。

だが、コメント欄において、『自分よりも不幸な者を見ることによる安心感』『伝統的な日本の階級社会(身分の違い)の名残と意識』『キリスト教の博愛・弱者救済の倫理観』『人間社会の個人差や自意識に基づく差別・いじめの普遍性』について読み、ふとニーチェの同情否定の思想をイメージしたので書き留めておく。

F.ニーチェの実存主義哲学は、『反キリスト教(弱者貧者の道徳的地位の否定)・反社会福祉・自己肯定の超人思想』に象徴されるように、『ストレートな強さ・美しさ・豊かさ』を賛美する真の貴族主義を掲げた文学的・美学的ロマンスの思想である。

弱くて貧しいが故に正しい(強者・富者は道徳的価値は低い)という大衆の数の論理に裏打ちされたキリスト教道徳を反駁して、強くて美しくて豊かであるが故に正しい(それはあまりにも自明であるが故にそうではない者のルサンチマンを刺激する)という人間の本能・知覚・直観に裏打ちされた古代ギリシアの貴族主義に回帰するかのような『超人思想』を喧伝した。

私は強くて美しく豊かであると思える『超人(ツァラトゥストラ)』を目指し、自分の弱さ・不遇に押しつぶされるような『どうせ自分なんて・今とは違う人生があれば・誰かが助けてくれれば』という自己嫌悪や道徳の逃げ場を閉ざしたニーチェは、ナチズムとも接合した優生主義者(権力志向の反ヒューマニスト)として批判されることもある。

今まさに生きているこの自分以外の生はどこにもなく、この一回の人生こそが全てなのだ(何度やり直しても今と同じ生を繰り返す以外にないのだ)という『永劫回帰』を語ったニーチェだが、永劫回帰を前提とした超人(自己の全肯定)の理想にニーチェ自身が完膚なきまでに敗れて、恨み節を残しつつ狂気に陥ったという皮肉もある。

ニーチェの書物の面白さは徹底した言行不一致と現実の挫折を癒すための自画自賛の自己肯定にもあるが、結局のところ、ニーチェの古代ギリシア回帰の貴族主義すらも、自分に『強さと権力・健康と美しさ・豊かさと家柄』がないことから始まった想像上・思想上の強がりが多くを占める理想追求であった。そして、自分の現実(今の人生のあり方)を強気に解釈したいという自己肯定の心情は、概ねニーチェに限らず誰もがある程度は持っている自分を支えるための人間心理の普遍性でもある。

現実の価値(強さ・美しさの魅力)を、道徳上・宗教上の言説によって捻じ曲げるキリスト教をバッシングしたニーチェは、自分自身に対しては現実の裏付けを伴わない同情的な自己賛美を行ったりもしている。『自分の傷つきやすい弱さ』を否定したい思いが無意識にあればこそ、『強者賛美・弱者批判のフレーム』にはまりながらも、『弱者の内面心理・動機づけ』の正確な分析(ある種の自己分析)ができたとも言えるかもしれない。

『他者の不幸・苦痛に対する想像力や同情(共感)』の話に戻ると、現代社会を構成する常識人(普通の人)の大多数は、他者の不幸や苦痛に対して同情・共感の強い『善人・優しい人』ではある。現代の若者は昔の若者よりも、格段に礼儀正しくて言葉遣いも柔らかくて優しくなった、『暴力的な喧嘩・感情的な対立』よりも『平和的な交渉・合理的なすり合わせ』を重んじるようになったと言われることも多い。

現代は『体罰・差別・いじめ・ハラスメント・暴力団・怒る教育(褒める教育の推奨)』などの存在を全否定するほどにヒューマニスティックな時代であり、粗暴さや無礼さ、ルール違反などに対してのまなざしも厳しくなっている。

暴力・争いを無くして弱者の不幸・苦痛に同情してくれる善人が増える社会は望ましいことにも思えるが、ニーチェは『弱者たる善人の弱者に対する同情(弱者が弱者であり続けることへの是認)』を有害なものと見なし、善人の弱者に同情する優越感(差別感情)と誰からも傷つけられたくない保身がそこにあるのだと喝破した。

ニーチェ哲学とは武士は食わねどの強がり(プライド)の哲学であるがために、『強がれない弱者(プライドを放棄して同情を求める弱者)』に対して否定的となるが、それはニーチェ本人や読み手の強くありたいが強くありきれないというコンプレックスも包摂している。

その善人としての自意識を構成する動因が『自分も傷つけられたくないという弱さ』に偏ってしまえば、実際にその弱者を自己犠牲を払って救済する行動にまではつながらず、同情のポーズだけで終わる(それは善人としての自尊心・安心感を満たすには十分軽いコストという見方も可能だ)。

『家なき子』に絡めて言えば、『同情するならカネをくれ(弱者としてではなく強者として実際の効果のある同情をしろ)』が、弱者の弱者に対する同情(自分も傷つけられたくないからという理由での同情)の無益さを示す。

一方、ニーチェ流に再解釈すれば『自らの不幸を理由とする他者への同情(利益供与)の強要』は、弱者が強者を感情的に脅迫(逆転)できる道徳的・宗教的な権力なのだという話になるが、『同情の強要』は強者の軽蔑と弱者の計算の相互作用によって社会に回復しがたい差別・身分の意識の断裂を生むとした。

現代における社会福祉や生活保護に対する反発の多くも、強者の軽蔑というレベルではないが、『自分のほうがより弱者であるのに支援が得られない・大して弱者ではないのに弱いポーズをしているのではないか・弱者である人のほうがまだ自分より恵まれているように見える』といった相対的な弱者同士の相互作用の影響を無視することはできない。

そういった弱者バッシングは、『本当の弱者の地位・証明(不正やズルをしていないことの証明)』を巡ってのネガティブな動機づけを強めたり、ワーキングプア層と生活保護層との不幸比べ(困窮度の比べ合い)めいた問題を引き起こしてもいるが……『弱者・無能力者(心神喪失者)であることを社会的・制度的に承認されるメリット』というのが、社会の多数派が相対的な弱者(何らかの不足・弱さ・つらさのある人)であるために、弱者同士のルサンチマンの原因になりやすくもなっている。

現代社会の多数派である『善人』の多くは、『優しさ・思いやり・同情』の背後に『弱さ・恐れ・無力さ』を抱えているものだが、自分が誰からも絶対的に傷つけられたくないという弱さがあるために、優しく思いやり深くならなければいけない(他人の怒り・不満・不快・憎悪を引き起こすような行為は自分が傷つけられるリスクを高める)という側面もある。

その意味で現代社会で増えている『善人』の多くは、自分が傷つけられたり馬鹿にされたりした時の抵抗力・反撃力が十分ではないという脆弱性を持っており、心根としては優しくて誰も傷つけない善人ではあっても、その動機の多くは『余計なトラブルを避けて他者の反感・恨みを買わない保身(トラブルや対立になると自分は上手く抵抗して対応できないし面倒くさい)』に由来しているから、『悪人・非常識人・理不尽なトラブル』に対しては概ね無力ではある。

結果、実際に困っていたりいじめられたりしている弱者を、積極的に助けられるほどの善人(強さを持つ善人)は殆どおらず、現実に迷惑を掛けて暴れ回ったりマナー違反・犯罪を繰り返している粗暴な相手・集団(ヤクザ者)に、それをやめろと体を張って制止できる善人も殆どいないという『現実社会の説明』にもつながる。

自分は優しくて思いやりがあるから他人を傷つけたり悪口を言ったりしないが、それは『自分もそういう悪意や攻撃に晒されたくないから』という理由に基づくので、『お互い様の道徳観』が通用しない悪人や無法者(意図的な攻撃)に対しては、弱き善人であるが故の無力さが問題になることもある。

相手との対立や相手からの悪意(反撃)が怖かったり面倒臭かったりして、『理不尽な相手に対して言いたいことが言えない悔しい思い』をしたことのある善人は非常に多い。

その場で自分を傷つけた相手に対して、毅然と言い返せなかったこと(立ち向かわなかったこと)を家に持ち帰って愚痴ったり悔しがったりということにもなるが、これは『争い・危険・実害を回避する現代的な合理主義』ではむしろ当たり前の判断の結果であり、無法者の悪事や迷惑行為にひるまず対抗して、ドンと腹を刃物で一突きされてあの世に行くというリスクをゼロにはできないからである。

まぁ、どうしても争いが不可避となって、本気でいざやろうと思えば戦える程度の強さがあるか、どんな争いや対立であっても耐えられなくて大声で恫喝されるだけで足がすくんだり気分が悪くなるほどの弱さなのかという違いは当然あり、前者であれば『言葉・倫理・交渉がどうやっても通用しない野蛮や悪意』に対して一定の有効な抵抗力はあるとみなせるだろう。

自分が攻撃されたり馬鹿にされてもなおヘラヘラと追従してしまう自分の弱さ・臆病さによって、自己嫌悪を募らせるということもいじめ・差別のトラウマの一部であるだろうが、『絶対にわずかなりとも傷つけられたくない・相手からの悪意や反撃を一切受けたくない(悪意ある相手と対立しているというストレスだけで参ってしまう)』という自己保身が過剰な弱い善人になれば、『自分が攻撃しなければ、相手も攻撃してこないという文明社会の常識』が通用しない悪人や非常識人には無力にならざるを得ない。

弱さと善人というニーチェ思想のエッセンスは、国家レベルに置き換えれば現代の国家安全保障や平和主義、外交戦略などとも関わってくるものでもあるが、『相互不可侵に同意しない他者の悪意・攻撃をはねつけるだけの自衛力』と『他者の不幸・困窮を緩和する力になれるだけの行動力』というのは、善意・善人の実際性や実践力を強く規定する二つの要因ではある。

現代の先進国に生きる個人レベルでは、9割以上の人は、言葉や倫理、常識をベースとした相互不可侵・遵法意識などを共有することが可能なので、『無害な善人であることの適応性』は十分に高いし特別に困らないが、『他者に危害を加えない善人であることが通用しない悪意ある相手(あるいは自分がリスクを負担して何かしなければ解決しない状況)』に直面した時には、善人であること+αの要素が無理矢理に求められることになってしまう。