“週末婚・月末婚”といった同居しない結婚(通い婚)と同居する従来の結婚との異同

結婚すれば一緒に寝食を共にする共同生活をするのが当たり前という常識は、その多くを『性別役割分担』『子育ての協働性』『配偶者の排他的な独占性』に依拠しているが、ずっと一緒に同居することによって得るものもあれば失うものもある。

『一緒に住まないのであれば結婚する意味がない』という保守的な意見は、男性であれば『衣食住をはじめとする身の回りの世話を常にしてもらいたいという欲求(男性にモテるというか男好き・恋愛脳な妻であれば浮気防止なども含む)』、女性であれば『家族の絆を分かりやすい同居生活で確認したいという欲求(女性にモテるというか女好き・恋愛脳な夫であれば浮気防止なども含む)』が根底にあることがやはり多い。

結婚しても自由な生活を保証する「週末婚」

相手のためや相手の利便を思っての『同居の結婚』、自分が見返りを求めずして相手にして上げることだけを純粋に楽しめる同居の結婚であれば、夫婦関係が同居によって好ましくない影響を受けたり、喧嘩の原因が生まれることはないはずだが、そこはやはり特別な悟りの境地には達していない生身の人間である。

『自分だけが相手に良くしてあげていて、その見返りとなるものが不足しているように感じる状況』が続けば、不機嫌になったりそれとなく不快な動作になったりすることがないとは言い切れず、一緒に住んでいれば別居している時よりも『相手がしてくれて当たり前と思う水準』が知らず知らずに上がってしまいやすいのである。

一人暮らしや親との同居であれば、仕事をして疲れて帰る途中のコンビニや外食で軽く食事を済ませて満足できていたのが、アルバイト(自分よりも勤務時間が短い仕事)をしている妻と結婚して同居するようになった途端、『きちんとした手作りの料理が準備されていて当たり前(帰った時に料理がなくて自分で買ってきてと言われたら何となく面白くない気分になってしまったりする)』という価値判断に意識が切り替わってしまう人も少なくない。

恋愛の時期には、たまに作ってもらう料理に心から感謝して美味しく食べられたものが、結婚して同居すると、毎日作って貰えて当たり前というかそれを作らないことが週に一日でもあれば相手が怠けているかのような(自分への思いやりが足りないかのような)マイナス評価をする頭に変わってしまう。

料理を作る側も自発的に楽しく作れなくなり、義務としてやらなければいけないような他律感でやるから家事がつらくなったりすることもあるが、『やらされ感(義務感)・依存性の強化(自分がいないと衣食住の基本生活がなりたたなくなる)』や『相手に率直にモノを言えない空気・関係性』があると同居生活はつらい要素が増える。

性別役割分担が強かった昔は、本当に仕事以外の何もできない男性は少なからずいて、妻との死別後に自分でカップラーメンを作って食べるようなことさえなかなかできないような信じられないような事態もあったが、そこまで酷くなくても現在の結婚生活でもインスタントやレトルト、冷食、外食するように言われることなどを『手抜き・愛情不足の現れ・健康への気遣いがない(自分がどうなってもいいのか)』のように否定的に受け取る人は結構いたりする。

『俺は手作り料理しかダメだ』みたいな意見を言う人もいるが、こう言われてしまうと嬉しい人もいるだろうが、間接的に毎日おさんどんをする役割が半ば宿命づけられてしまう重たさ(気軽に今日は自分で適当に外食でもしてきてよ、何か買って食べてよも言えない関係になっていく)もあるのである。

現代でもいったん基本生活や身の回りの多くを人にしてもらうようになってそれが当たり前になると、途中から相手が『基本生活・身の回りの世話』をやめたり休んだりすることが難しくなっていくこと(しないと相手が不機嫌になること)になり、一緒に生活し続ける限り、毎日終わりなく決まった形で相手の世話を焼かなければならない関係になっている人も多い。

そういったことを考えると、同居しない結婚には意味がないと言っている人の何割かは、『自分のことをして貰えないなら結婚する意味がない』ということで、『相手のことをして上げられないから結婚する意味がない』という意味合いで言っているわけではないように思える。

無論、結婚したらどのくらい自由がなくなるかどうかは、『子供の有無』と『相手の自律性・性格特性・干渉の度合い』によって大きく変わるのであり、同居する結婚をしたら全面的にただちに自由がなくなるというわけではない。

極論すれば、双方が『自分の生活リズムに干渉されたくない人・自分のことは基本的に自分でやればいいという人』であれば、結婚して同居しても一定以上の自由度は保たれるだろうが、上記したように結婚してお金を入れたり家事をしたりするようになれば『相手への役割期待』が当たり前になっていくことのほうが多いし、何でも自立・不干渉でいくのはそれはそれで自由だが結婚していることの実質が世間体以外にはない。

結婚しても自由な生活を保証するとは、言い換えれば『結婚生活も独身生活もその実質を変えずにいる』ということであるから、その自由度が結婚の前後で全く同じなのであれば『婚姻届の提出』以外には、お互いの気持ちや役割に何の変化もないということを意味するからである。

子供ができれば母親となる女性のほうが男性以上に生活全般の自由がなくなるのはほぼ確実だが、結婚する女性の過半は『子供のいる生活・人生』を自ら希望して結婚するので、子供を得て育てる代わりの不自由さの享受はあらかじめ覚悟していることのほうが多いだろう(極端に覚悟がなければ育児放棄・虐待・不倫などさまざまな事後のトラブルが生じやすい)。

男性のほうはよほど子育てに熱心に関わる人でない限りは、休みの日に子育てを手伝うくらいで、長時間働くサラリーマンなどであればそれまでの仕事中心の生活形態が大きく変わることはないことが多い(女性がキャリアのある職業人でなければ、男性の育児協力以上に安定した給料・昇給のほうを望む比率のほうが高い)。

結婚したり子供ができたりして不自由になる度合いは、一般に男性よりも女性のほうが大きい。特にフリーター・学生・無職の男性が結婚するから正社員になることにしたなどの特別なケース以外で、初めからフルタイムやハードワークの正社員をしている男性であれば、結婚する前と後で『使えるお金の自由度』の違いは大きくても、(よほど女好きで恋愛方面で忙しい人でもない限り)『毎日の生活・仕事の流れ』は大きく変わらない。

独身時代から、フルタイムの仕事を年金受給までやり続けるという仕事優先の義務感が強い人(サラリーマンとしての適性・意欲のある人)であれば、結婚することで追加される負担はさほど大きくないし、相手との役割分担で得られるメリットの方が上回るケースも多いはずである。反対に、隙間なく仕事をやり続けられるかどうか自信がないとか、転職回数が多くて仕事をしたりやめたりを繰り返したりとかの人(自分一人であれば仕事の負担をどうとでも制御できるという考えの人)であれば、共同生活に逃げ場がない結婚の負担・重圧は大きくなりやすい。

『相手に率直に本音でモノを言えない空気・関係性』だと同居の結婚生活はストレスフルになると書いたが、好きになって結婚した相手であっても元は他人であり、以心伝心で何でも伝わる(何でも自分の意見に合わせてくれる)というわけではない。

『相手の態度・反応・主張』などを長く見てきた経験からこの人にはこれを言ってはいけない(何らかのコンプレックスやトラウマで非常に強い反抗・不機嫌が予想される)、いくらこの考えを訴えてもあの人は受け付けない(この部分については価値観が凝り固まっていて絶対に考えを変えないだろう)といった『本音でモノを言えないポイント』が生まれてくることもある。

逆に言えば、本当に相性が良くてリラックスできる柔軟な相手(共感性が高かったり価値観の一致度が高かったりして、穏やかな話し合いで多くの物事を楽しく解決できる相手)であれば、『本音でモノを言えないポイント』がかなり少なくなる。そういった二人であれば、同居婚でも別居婚でも心理的負担や実質的な不自由は大差がなくなるし、一緒に暮らすことのメリットや安心、楽しさは別居婚の自由よりも上回るだろう。

だが、共同生活を長く続けていくうちにあれこれ欠点・問題・世間一般との比較を上げて説教臭くなってくる人、自分の気に食わないことや思い通りにならないことがあれば不機嫌な態度になったり物音を大きくしたりする人(間接的なDV・モラハラなどの傾向がある人)などもいて、『暮らしてみて分かる合わない部分』が目立ってきたり、『一緒にいること(相手の反応や自分への要求)がストレスや緊張・苦痛になってくること』もある。

後者のストレスや不快・苦痛・緊張が強くなれば、共同生活そのものが困難になっていくので、どちらかが自分の考え方や行動・要求を相手に合わせて譲歩しない限り、いずれは別居・離婚の道筋に行く可能性も高い。

同居する通常の結婚は、従来は家庭を維持する相互義務を制度的に負わせる家族共同体の構築と同義であり、個人の快・不快や幸・不幸など(見合い婚や取り決め婚では相手が好きか嫌いかさえも二次的な問題だった)は殆ど考慮されておらず、結婚すれば、夫・父として妻・母として果たすべき社会的・情義的・再生産的な義務(その多くは性別役割分担を世間の常識として規定されてもいた)をお互いに果たし合うことが結婚する目的でもあった。

週末婚は結婚が『社会的な義務・世間体(人並みの人生設計)の指標』から『男女両性(同性婚もあるが)の嗜好に基づく同意と選択』へ変わったことの現れであり、結婚の目的が『制度的裏付けのある家族共同体の構築(家と家の結びつき)・出産育児の協働による社会再生産(家系・社会の持続性)』から『個人の幸福や喜び・両性の納得に基づく助け合いや寄り添い(納得と同意が断絶すれば離婚に至る)』に変化してきたことを象徴するものであるようにも感じる。