関越道のツアーバス事故で懲役9年6ヶ月の実刑判決。時代のマスメディアの報道姿勢

関越道のツアーバス事故は、自ら請け負った違法な労働条件(バス車体・運転手の登録手続にも法的な不備がある状態)によって過労状態に陥っていた河野化山(こうのかざん)被告が、居眠りをして猛スピードで防音壁に突っ込み、車体が真っ二つになるほどの損傷を受けた見た目にも衝撃的な事故だった。7人が死亡して、38人が負傷する自動車事故としては非常に大きな被害を出した。

<関越道事故実刑>「ある程度納得したが…」遺族、笑顔なく

自動車事故は年々減少を続けており、交通事故の死亡者がピークだった1970年代の交通戦争ともいわれた1万6千人台と比較すると、現在は飲酒運転厳罰化・危険運転関連の法改正の影響もあり4700人を割り込むまで激減している。現在が最悪の交通事故の状況というのは当たらないが、人々の意識としては『悪質な交通事故が増加したという印象』も強く、このことは凶悪犯罪が低い発生件数で推移しているのに、『治安が悪化しているという印象』ともつながっている。

1970~1980年代頃までは、日本は高度経済成長期にあり自動車の売上・税収と普及率が伸びるモータライゼーションは、『裕福な中流階層の増加を反映した先進国化(経済成長・労働意欲につながる欲望の原動力)』でもあったから、いくら自動車事故やその被害者が増加していても、被害者心理を代弁するような形の報道姿勢をマスメディアが取ることはなく、事故の発生と犠牲者数が淡々と報じられることが多かった。

現代は、もはやモータライゼーションのステータス(より大きくより高級な車への上昇志向)に憧れる時代のモードが終焉しつつあり、自動車業界の政治力や自動車をアイテムとする中流階層の生活意識も衰えてきたことから(車のステータス性や長期ローンでの車の購入意欲から遠ざかる若年層の増加)、自動車事故関連のマスメディアの報道姿勢も被害者の生の声を中心にして、『自動車の安全性・加害者の運転手の落ち度・量刑の軽さ』を厳しく非難する方向にシフトしてきた。

一方で、乗客を道連れにして自殺を図ったり、特定の歩行者を狙って意図的にひこうとするような殺人罪に相当する故意ではない交通事故(過失致死)で、懲役10年に近い刑罰というのは殺人罪と比較してもかなり重い判決である。相手を計画性がなく金銭が目的ではない喧嘩・威嚇の果ての傷害致死などで殺害しても、懲役10年までの判決は下らないことから、飲酒・無謀運転(意図的に極端に速い速度を出す)ではない自動車運転過失致死傷の容疑としては重い。

無論、長時間労働の睡眠不足によって、運転するのにふさわしくない体調・意識状態であることを知りながら、長距離輸送の運転業務に従事したことが『未必の故意』と解釈されることにはなるので、一般的な業務上過失致死傷の要件と比べれば悪質であることは間違いないので、その分、法定刑の上限に近い判決が下ったといえる。『故意』に乗客を死傷させる目的でわざと車を暴走させて防音壁に衝突したという状況ではなく、殺人罪との区別としての量刑の差異はなければならないだろう。

これ以上に無期懲役に近いところまで懲役の量刑を上げようとすれば、殺人罪との整合性を含めた刑法体系の基本設計そのものが崩れてしまう恐れがある。刑事裁判では『被害者の感情・立場』に共感する必要性がないわけではないが、被害者感情や主観的な応報原理だけに重点を置けば『死亡者を出した事故』では、今回の過労・違法運転よりも偶然性の要素が強い死亡事故(例えば偶然に手が当たって高層階から重量のあるモノを落とし、それが下を歩く通行人の頭部を直撃して死亡するなどの事故)であっても、もっと重罰を科さないと納得できないという人がでてきて収拾がつきにくくなる。

極論すれば、結果として死亡させたのであれば、加害者に故意や計画性がなくても、死亡するのに近いくらいの厳罰(極刑に迫る厳罰)を与えなくては、被害者遺族の怒り・恨みの感情のバランスが取れないということになる。

それは、『目には目を、歯には歯を』のハムラビ法典のような原始的・感傷的な応報原理(代理的な仇討ち・恐怖や痛みを与えるための威嚇としての法権力)に退行することにもなるが、現代はそれだけ本人及び関係者にとっての『個人の生命の価値』が高くなっている時代であり、『偶発的な理不尽や不幸への忌避感(何もしていないのに危害・損失を受けることを許せない思い)』が強まっている。

その結果、近代刑法が故意(計画犯罪)と過失(偶然犯罪)とを区別したり、被告の責任能力を判断して量刑を定めることに対する反対意見の圧力は強まっている。『加害者に復讐すること・苦痛を与えることによる正義(やられたらやり返すの応報論理・残虐刑で脅したり痛めつけたりすることでの犯罪抑止)』を否定する人道的・理性的な罪刑法定主義及び教育刑理念(それ以前の刑罰の権力志向・残酷さ・野蛮さからの脱却)から近代法は始まっている。

そのことからも、近代法と人間の自然な感情(犯罪の責任能力や動機云々よりも、危害を加えたその相手が許せないから結果責任を追及して、同じような痛い目・怖い目に遭わせたいとかいう思い)との相性は元々良くないのだが、関越道ツアーバス事故に関しては、法定の最高刑を与えたということ以外の『安全運行が確実にできる連続乗務時間+運転手の二人以上の体制の規制強化』や『日本語の理解力や会話力が極端に低い外国人運転手(帰化した運転手)の運転業務の許認可の適正化』なども再発防止策として重要視する必要がある。

それでも、高速バスをはじめとする自動車は『一人の不完全な人間(ドライバー)の運転能力・健康状態・注意判断能力』だけに、自分の生命を全面的に預けて信頼するしかない乗り物であり、その意味における事故発生の可能性については認識しておかなければならないだろう。

人間がハンドルを握って制御する自動車は、原理的に事故が発生する確率をゼロにまで近づけることは困難であり、それまで健康だった人でも突然の発病による心停止や意識消失のリスクはあるし、夜間運転での単純なハンドル操作のミス(道路状況の視認のミス)やスピード超過での制御困難、別の車からの一方的な追突・衝突による巻き込まれなども(概ね実際には起こらないことが大半であり、心配し過ぎても乗客側からはどうにもならないことだが)想定の範囲内にはなる。