ぼっち(一人の状態)を“孤独・不人気・持続的”と受け取るか“自由・選択・一時的”と受け取るかの違い:他者に幸せそうな自分の外観を見られたいという願望

最近、学校生活で一緒につるんで行動できる友達がいない状態を“ぼっち”と呼んだり、実際にどれくらいの事例があるのかは不明だが、一人で昼食を食べるのが恥ずかしいからトイレで飯を食べる“便所飯”が問題化されたりしている。

LINEやfacebook、mixiなどの『SNS依存症』の背景にも、友達から自分の存在を忘れられたくない、常につながっていないと仲間外れにされるかもしれない、自分のいないところで悪口を言われるかもしれないといった『人間関係から取り残される不安感』があるように感じられる。

「ごく一部」のリア充と比較 自虐的に自己否定する学生達

あるいは、学校生活の中でクラスの中心になって大声で自己主張できたり容姿・髪型・ファッションが垢抜けていたり、みんなの空気をユーモアを通して操作できたりする人気者の集団、無難に周りに合わせながら学校生活を送っている集団、いじめられたりバカにされたりする集団が階層分化する『スクールカースト』のような
問題(その具体的な事実性は疑えるところもあるが)もそこに絡んでいるかもしれない。

また地元志向(地元自慢)の強まりが指摘され、小学校・中学校時代の大勢の友達と大人になってからもつながりを維持し続ける『ジモティ,マイルドヤンキー』とかいったコンセプトが新たに提示されたりもして、『リア充=異性関係の充実・ライフイベントの展開(就職・結婚出産などのオーソドックスな生き方の展開)・社交的な人間関係の多さ』というイメージも強まっている。

『リア充』と『普通』という概念は、自分ひとりだけの世界や活動に没頭して自己満足(自己完結)しているわけではないという留保がついている時点で、単純に『人生を楽しんでいる人・やりたいことをやっている人』を指す概念ではないと言えるだろう。つまり、リア充というのは、『自分以外の他人からの承認・他人との連帯(一体感)や共同行動』によって得られる充実感らしきものを基盤に置いたライフスタイルのことである。

すべての人にとってリア充になることが『主観的な幸福・楽しみ』につながるわけではないが、自分以外の世間や他人からの視点では『順調・充実・幸せ・まっとう(健全)に見える外観』を呈している。

かなりの部分の人は自分がそれほど望んではいなくても『他人から不幸・劣等・孤独・変わり者に見られたくないという自己防衛』の思いから、ぼっち(一人であり続ける状況)を反射的に恐れやすいということは言えるかもしれず、これは通俗的に言えば『世間体・優劣意識のせめぎ合い』であり『異質性を排除(蔑視)しようとする同調圧力』でもある。

自分一人だけで始まって終わらせることができる『内向的・自己完結的・内言的(思索的)な趣味・活動』だけでは、幾ら本人が楽しくて満足していてもリア充の範疇には入らず、どこかオタク的で暗いというイメージになりがちでもある。

特に学生時代のリア充というのは、『異性関係・友達関係・クラス内での存在感・社交性と外向性』が中心にあるものであり、明るく元気なキャラクターで影響力・発言力があったり、異性に人気があってモテたり、魅力的な友達がいてワイワイやっているような人の人生(人生といってもスクールライフだが)が充実していると見られやすい。

ぼっちの本質的な辛さは『語り合える他者』や『体験・感情・知識を共有できる他者』がいない淋しさにあると言えるが、この本質的な孤独感から逃れるためにはやはり信頼できたり性格が合ったりする他者がいたほうが良く、この孤独の辛さについて『人間は一人では生きていけない』という言い古されたフレーズが当てはめられている。

一方、社会的な動物でもある人間にとってのぼっちは、『自分が好かれていない人間(暗くて魅力のない人間)のように見えるのではないか』とか『集団・他人に適応できない偏屈な変わり者や面白みのない人に見られるのではないか』とかいう他者から見えている自己像に対する不安や自信喪失に由来するものである。

時に、容姿端麗なイケている仲間集団の一員に加わることで、自分も同じようなイケメンや美人になって人生を楽しんでいるかのような心理的補償(自己暗示)ができる人もいるし、彼氏彼女・配偶者にリア充の見栄えがしたり影響力がある人を迎えることで『自分自身の魅力・存在感』も割増しされたような心丈夫な感じを得られる人も多い。

それまで自分に自信がなくて人生を楽しめていなかった人が、恋愛や結婚、出産などを機会にして、『自分を強く承認してくれる他者』が現れたことによって自己評価が高まったり『普通の人生・ライフデザイン』ができていることが精神的な拠り所になったりすることもある。

他人の目線を想像してあれこれ思い悩むこともある『社会的な動物』である人間にとって『誰かが自分の人格的・性的・社会的な価値』を特別なものとして承認してくれる体験は一般的になかなか影響力があるものであり、『ぼっちの恐れ』の本質も自分の存在・人格・魅力が誰にも通用しないものなのではないか(誰も自分と積極的に付き合いをしたいと思っていないのではないか)という、『自己存在の空虚化・不可視化(他者から見えていないように振る舞われる)』に対する恐れなのかもしれない。

しかし、ぼっちを『孤独・不人気』だと解釈して自己評価を落としてしまう人は、人間関係から疎外されて一人になることを何よりも恐れるため、『(大して好きでも親しくもない)他者への過剰適応』を起こしてしまうこともあり、『自分の人生』ではなく『他人が自分に要求したり期待したりする人生』を歩き続かなければならない落とし穴もあるだろう。

反対に、ぼっちを『自由・自己選択』であると解釈して、付き合いたい人や面白い人、話したい気分の時には、自分から積極的に関わりを持つような切り替えができる人であれば、『孤独・疎外の恐怖』によって『他人の要求・期待の影響力』に支配されきってしまう事はなくなり、結果としてより充実した同調圧力の少ない自らの生を悠然と歩くこともできるはずである。

固定的な人間関係ないしグループ活動には確かに、『安定感・安心感・居場所の持続性』というメリットはあるが、その反動として『一緒にいて楽しい人たちだから一緒にいる』という原点から離れて、『定期的に集まったり呼び出しに応じたりすることが義務化している関係・集団』になってしまうこともある。

ぼっちを恐れるがあまり手段の目的化になってしまえば本末転倒でもある。

『他人から見られている自己像』の想像や評価にあれこれ悩み過ぎると『自分がやりたいこと・興味関心のあること』ではなく『他人から幸せだと見られること・みんなが興味を持っていたり評価していること』だけが選択基準になってしまいやすいが、それが人間の社会性や規範性に基づく『普通・世間体』を作り出す原動力といってしまえばその通りだと言うことになるだろう。