映画『そこのみにて光輝く』の感想

総合評価 78点/100点

北海道の函館市の鄙びた街を舞台に、生き甲斐を喪失して彷徨う孤独な男と暗く貧困な家庭環境に耐えて春をひさぐ女との恋愛を描く。

トタン屋根とプレハブ小屋のような家屋、仕事のない地方での貧困と売春(ピンク小屋)、家や親の後見がない女性の悲哀、ダイナマイト発破の危険な3K仕事、介護保険がない時代の自宅介護、ヤクザ崩れの地元実力者の愛人の囲い込みと恫喝など、原作の時代設定は平成の現代というよりは昭和40~50年代辺りをイメージしたものなのだろうか。

山の発破の仕事で起こった死亡事故に責任を感じている達夫(綾野剛)は、仕事を辞めて世捨て人のような一人暮らしを静かにしている。達夫は酒を飲んだりパチンコを打ったり散歩をしたりしながら、気ままで自堕落な生活を送っていたが、ある日、パチンコ屋でライターを貸してやったことが縁で拓児(菅田将暉)という同世代の遊び人風の青年と知り合いになる。

拓児には暴力事件を起こして少年院に入院していた前歴があるが、裏表のない気のいい奴ではあり、ライターのお礼に達夫に自宅で昼飯を食べさせてやるから来いと誘う。季節は暑い夏、屋根が錆びて古びたプレハブの家屋の奥の部屋から、拓児の姉の千夏(池脇千鶴)が汗ばんだ肌を露出した無防備な下着姿でタバコを銜えながら姿を現し、達夫は目のやり場に困っている。

女優の池脇千鶴は久しぶりに見た気がするが、『そこのみにて光輝く』では中年女性の熟れた色香を漂わせる池脇千鶴の肉のついたヌード・絡みありの演技が、昭和の日活ポルノロマン的な郷愁と悲哀を湛えている。

場末のスナックのピンク小屋で身体を売ったり、弟の仕事を世話してくれるチンピラのような地元有力者の植木屋の社長(高橋和也)の愛人になったりしている千夏は、脳梗塞で障害者となった父親の介護、仕事のない弟の世話なども重なり、どうにも身動きできないつらい境遇に固定されその身の上を概ね諦めてしまっている。

直接的・遊戯的なエロスをこれでもかとあからさまに表現するAVはウェブ社会の現代ではあまりに氾濫し過ぎている。結果、大半の男は無限の選択肢・性的嗜好性に溺れて、紋切り型の若くて綺麗な女性の視覚刺激の不感症になりやすいものだ。現代は、バーチャルな性的刺激のインフレーションが加速度的に進みきってしまった時代で、『性の私秘性・禁忌性・背徳性』といった性愛本来の妙味が欠落しつつある。

物語性のないダイレクトな性的刺激の氾濫に食傷気味な一方、映画ならではの『文学的・物語的なエロス』と『キャリアのある女優の演技・裸体』というのは、ただ行為・裸体のみを見せつけるだけのAVとはまた異なる視点での魅力がある。

近年では、吉高由里子の『蛇とピアス』、鈴木杏の『嫉妬』、沢尻エリカの『ヘルタースケルター』などが同種の物語的なエロスや女優の裸体を表現しようとしたものだが、こういった作品は普段の女優のイメージとのギャップ、あるいはその後のキャリアやイメージとの懸隔(清純派・セクシー派・若手・中堅の間の揺れ動き)に刺激を求めるもので、ストーリーそのものが卓越しているというわけではない。

物語仕立てのAVは早送りされて飛ばされるのが常だが、映画のエロスというのは裸体や行為そのものにはさほど価値があるわけではなく(実際そういった場面の時間はかなり短くてそれほど鮮明な映像ではない)、『物語の文脈・情景・登場人物の視点を通したエロス』や『女優のキャリア・年齢や演技力・覚悟と照らし合わせた裸体』によって客観的な身体性にはない想像のエロスが醸成される。

映画と性愛の物語的な連関というのは、洋画よりも邦画のほうがお家芸といった観があり、昭和期まであった『欧米社会(洋画)のほうが性表現に対して開放的でハードというイメージ』は完全に消えたといって良い。また、欧米の性表現は日本的な情緒や境遇、状況、フェチシズムの絡む微妙なニュアンスを捉えることが基本的にできないので、性的なコンテンツも殆ど画一化されたもの(純粋・清潔なロマンティックラブではない快楽目的のものは、ほぼ動物的な行為を主体にしたもの)になりがちである。

かつては青少年に悪影響を与えるとされた『洋画の長いベッドシーン(一部の映画でのモザイクシーン)』も、1990年代頃からはハリウッド映画から完全に排除される流れ(バイオレンスとセックスの視覚刺激に対するメディア規制や批判的世論)が決定的となり、現代の新作のアメリカ映画では、胸を晒したトップレスの女優が映し出されることは殆ど無くなっている。

まぁ、色恋沙汰・性的興奮と切り離して本来の真面目なストーリーや物語的な世界観を楽しみたい大半の作品では、はっきり言えば『ベッドシーン・男女の裸体や絡み』というのは余計なノイズであり時間の無駄遣いである。僕も大半の映画ではいわゆるラブシーンなどは不要だと感じるし、古い洋画で延々と何分間もキスをしたりシーツの中でもつれあったり、行為をしたりしている場面などは、『その場面をそんなに長い時間で入れる必要があるのか』という不満のほうが大きく早送りしたりもする。

『そこのみにて光輝く』では、池脇千鶴が演じる“千夏”の救いのない家庭環境や娼婦・愛人である自分の自己批判(過去の履歴からの自信喪失)を起点として、千夏に惚れた達夫が、千夏を不幸な境遇から引きずり出すために、自分自身もトラウマを乗り越え、山の発破の仕事で再起しようとする純愛のプロセスを描こうとしている。

千夏を救い出そうとする達夫の動機づけは、仕事がなくてぶらぶらしている千夏の弟の拓児(あっけらかんとしているが内心では家族に何もしてやれないことに悩んでいる)も一緒に『山の仕事』に連れ出してやろうとする気持ちにつながっていく。

達夫と千夏の恋愛(=函館の地元での絶望状況からの離脱)のプロセスの最大の障害になるのは、貧困な家の環境の足元を見て見下している胸糞の悪い植木屋のチンピラ社長だが、愛人にしている千夏への未練がましい執着心・所有欲をあからさまにして、弟の拓児に仕事を回していることやカネを渡していることを恩着せがましく言い立ててつきまとう。家庭持ちでありながら愛人の千夏に入れあげているが、別れ話(他に好きな男ができた話)がでると泣き落としから恫喝・暴力に転じるという典型的なDV男であり、醜悪な側面もある男の性欲・独占欲の業を象徴したような人物である。

『そこのみにて光輝く』は、そのタイトルに反してそんなに光り輝いている一点や気持ちが晴れる瞬間がクローズアップされているわけではなく、全体的には暗いトーンの話題や人間の嫌な部分を示す会話が淡々と続いていく。純愛にも貪欲にも支配欲にもやる気(現状打破)にも転換し得る『男女の性愛の業』と『日本にも有り得る貧困・絶望・無気力の境遇(家庭・家族)の類型』を描いた作品だが、達夫と千夏との関係にしても、初めから純愛というものではなく、知覚体感的な発情を相互に察知するようなところから始まっている。

役割的なジェンダーや日本的な男性社会の構造について考えさせられる要素もある。『カネ・性・権力(それらのあからさまな交換条件・保護される代わりの従属)』という極めて現金なものが前面に出てくる場面・境遇のいやらしさ、ある種の人たちの底意地の悪さ(恩義による絡め取りの支配欲)といったものを痛感させられる映画でもあるが、『日本における格差・貧困・無気力の過去と現在』を再考する視点にもなる。