集団的自衛権の行使可能性の議論と日本国民の生命・財産の保護のあり方

安倍政権は『日本国民の生命・財産』を守るために集団的自衛権の行使容認が必要だというが、日本領土が攻撃された場合以外のグレーゾーンの内容を聞くと、『日米安保条約の双務性(日本が血と汗の負担をしていないからアメリカから見捨てられるのではないかの不安)・アメリカの艦船や領土の共同防衛措置』に重点があるようである。

集団的自衛権:首相が必要性改めて強調 集中審議

中国との積極的な対話姿勢や妥協点(中国の政情変化を待つ棚上げ)の提案を見せずに、外交戦略の有効性が完全に失われた『周辺有事』の勃発可能性ばかりを盛んに強調しているのは不可思議だが、安倍政権は集団的自衛権を『国民の生命・財産の保護』のためというよりは、『対中国の封じ込め戦略・軍拡競争』ないし『国連軍(多国籍軍)の軍事制裁やPKOの駆けつけ警護への自衛隊参加』のために行使できるように憲法解釈を変更したいのだろう。

しかし、残念ながらアメリカのオバマ政権は、日本と共同で対中国の封じ込め戦略をするつもりは毛頭ないし、オバマ大統領は安倍首相との首脳会談で『中国との軍事緊張・領土問題を緩和させる外交的努力・交渉機会の設定』を勧奨しており、G2のアメリカと中国の外交関係や経済的相互依存は密接なものがある。

日米中が軍事衝突して相互に国交断絶・貿易停止をすれば、世界経済は短期間で瓦解してしまい、国家主権や軍事バランスをどうこう言っているような状況ではなくなるので、各国は国民のナショナリズムや仮想敵国への憤懣を利用したガス抜きは行うとしても、本格的な戦争にまで発展するリスクはゼロに近い。

偶発的事故で攻撃を受ければ(死傷者がでれば)ただちに大きな戦争になるという見方も現代では確実なものではなく、例えば、韓国の延坪島が北朝鮮に不意撃ちの集中砲撃をされて大勢の死傷者が出た時にも、韓国は一定の報復射撃を行っただけでそれ以上の戦争事態にまでは発展しなかった。

集団的自衛権の前提にあるのは『中国脅威論(中国の核心的利益の無法な拡大傾向)』であるが、日本が中国を『仮想敵』とする集団的自衛権と軍事力強化(中国軍との軍拡競争)の必要性を唱えれば、中国もそれに対抗する軍拡と防備、敵意を強めるだけだろう。

いくら軍事力を強化しても、日本と中国との政府間・国民間で『感情的な対立・コミュニケーションの断絶』が強まっていれば、全く東アジアの安定と繁栄に結びつかないどころか、軍部と世論の勢いを抑制できなくなれば、逆に国民の生命・財産が侵害される危険性が高まる。

軍事力さえ強ければ国家主権や国民の生命・財産を保護できるとする考え方は、北朝鮮・イランに代表される『ならず者国家(国際社会の人権規範・対話の倫理を力づくで無視しようとする国家)』の考え方であると同時に、世界最強の軍事力を持つアメリカの国民が9.11同時多発テロを受けたりアフガン・イラクで大勢の戦死者を出したように、必ずしも軍事力が最強であれば国民が死なない、殺されない(より国民と国土が安全になる)というのは誤りである。

外交戦略や外交方針を誤ったり、諸外国との対話・協調を諦めて強制的に屈服させて干渉しようとすれば、どんなに強力な軍事力を持っていても自国民の生命・財産の安全が保たれることはなく、一時的に仮想敵国やその民族・部族を武力で屈服させて言うことを聞かせても、ゲリラ的あるいはテロ的な反抗姿勢・価値観までは変えられないので、いずれは元の木阿弥(中東・アフリカでの反米勢力の増大など)になりかねない。中国も強制的な少数民族統治に対する反乱の気運が、テロ活動となって表面化しつつあるように、力での抑圧は万能ではない。

人間は心から相手の言い分や本意に納得するまでは変わらない存在だということを忘れてはならない。脅したり痛めつけたりして自国の利益を確保したり主張を押し通しても、相手を根絶やしにして全滅させることが不可能な以上、『理不尽・強制的な利益確保』は歴史の進展や世代の交代と共に、再び対立の原因(あの時の恨みつらみ)となって芽吹いてしまうだけである。

中国・北朝鮮といった『東アジア情勢の不安定要因』とされる国々においても、軍事力を強化すればするほど自国民の安全と繁栄、幸福が保たれるということなどはないし、軍事力の重要性や外国の脅威ばかりを殊更に強調する国の多くは、中国・北朝鮮を見てもわかるように『自国民に対しても軍を向けるような国(国民の多くが政府を怖がって遠慮する自由と豊かさのない国=いつかは国民が政府から離反する国)』になりかねないリスクがある。

軍事的な勢力均衡(パワーバランス)が抑止力となり、軍事力の空白が紛争リスクを生むというのは、確かに帝国主義外交(軍事的な領土・権益の支配)が容認されていた第二次世界大戦以前の時代の地政学の黄金則である。現代においても一定の有効性を持ってはいるが、最大の紛争リスクは軍事力に格差や空白があるから生まれるのではなく、『政治体制・憲法理念・価値規範・国民教育(教養水準)による対立と無理解』が放置されていることにこそある。

日米欧の自由民主主義や人権思想といった憲法理念を共有する先進国の間で、『軍事力の格差』があるからといって紛争リスクが高まることがないように、あるいはリベラルな日米欧と反リベラルな中露が対立的なグループ分けになりやすいように、紛争リスクというのは『勢力均衡の崩れ』から起こるというよりは『国家の憲法理念(基本的な考え方)・国民感情の対立』によって起こるというほうが事実に近い。

外国との対話・交流の機会を閉ざして相互理解・妥協点模索の努力を放棄したり、対立的な仮想敵国に設定して有事想定の準備と軍事力強化に邁進することは、『パワーバランスによる抑止力』よりも『国家の憲法理念・国民感情の対立』という最も根本的な紛争リスクのほうを高めてしまう恐れがある。

武力の優劣(勢力均衡の崩れ)によって紛争が起こるというのは本質論ではなく、弱肉強食的な無道な価値観(自国さえ良ければ良い・自国が損するかもしれない中立的な議論など受け付けない・やるかやられるかの世の中だという考え方)を肯定したり、武力を用いて奪い取ったり傷つけても良い相手だという国民の悪感情を鬱積させることで紛争は起こるからであり、政治家や国内世論の圧倒的多数が平和主義的(道理・根拠・交渉を重視する考え方)であれば『対立的・拡張的な外交のフレームワーク』がそもそも承認されない。

集団的自衛権の行使可能性には、『日米同盟の双務性の強化(対米国の貢献度の強化による共同防衛の安心感)』『自国の領土・国民の権利の防衛』『世界平和・国連活動への自衛隊を活用した積極的貢献(一国平和主義からの離脱や多国籍軍の参加検討)』という3つの異なるレベルの目的論が混在しているが、日本国民の生命と財産を保護するためというのはそのまま『個別的自衛権』を指しているので、その目的のためだけであれば集団的自衛権行使の解釈改憲を必要としない。

地域あるいは世界の平和と安定と繁栄のためには、『勢力均衡(パワーバランス)』も大切ではあるが『政府・国民の武力による問題解決を否定する合意形成(基本理念化)』がより大切だと思う。

中国は確かに周回遅れの力を信奉する経済大国・軍事大国としての顔を示し、『基本理念や人権感覚に対する信頼感・安心感』が未だ持てない国(国家の実力と思想と人民の生活水準が乖離した国)ではあるが、『軍事的拡張主義の破綻・危険』を大東亜戦争(日米戦争・日中戦争)で経験し、戦後にそれとは逆の平和国家の道を歩んできた日本であればこそ、『過去の日本を反面教師とする交渉力』を発揮できる歴史的素地がある。

それは謝罪外交とか自虐史観とかいった問題ではなく、少しでも実力(武力・経済力)を蓄えれば調子に乗って横暴・強欲になりやすい国家・人間の本性に対する反省(立場の互換性)を双方に迫る交渉であり、大日本帝国の歴史や外交を道義的に批判する中国に対して『中国もまたかつての大日本帝国的な武力による拡張主義・自民族至上主義の罠(中国が否定している過去の日本と同じような排他的ナショナリズムや威圧的外交の罠)』に陥っているのではないかという『自国の客観像・歴史のあゆみ(繰り返しの危険性)』をお互いに鏡に映すような道義外交である。