“危険ドラッグ”への名称変更:現代はなぜ“脳”だけで気持ちよくなろうとするのか?

脱法ドラッグの名前を『危険ドラッグ』に変えようが『破滅・廃人ドラッグ』に変えようが、精神状態を気持ち良くドラスティックに変性させる薬物に手を出す人はいなくならない。

違法・脱法のドラッグとは何なのか、簡単に言えば『現実世界(社会活動)や人間関係を経由しなくてもその中で努力しなくても、確実に快楽・陶酔・興奮・インスピレーションを感じられる薬理学的な物質』である。脱法ハーブであれば、比較的安い金額を支払えば、陶酔感や酩酊感を得ることができる。

ドラッグ依存はアルコール依存と同じく、現実逃避やストレス解消の手段であり、ただその物質を摂取するだけで陰鬱な気分(面白くない人生を生きている自分の自己認識)を吹き飛ばして、脳に薬理学的な刺激を与えて異常にハイになったり愉悦したりしたいのである。

直接的かつ生理的に快楽やハイテンションを得られる手段として、人間をその深みに誘い込んでいき、依存症が重症化するに従って『身体的・精神的な依存+離断症状』によってやめたくてもやめられなくなる。

向精神作用を持つ依存物質の助けを借りないと、現実世界の無意味さや面白みのなさ、刺激の少なさに耐え切れない身体になっていく。『お手軽な快楽・興奮』と引き換えにして自分の正常な脳機能と精神状態を失っていき、気づいた時には薬物中毒者としてまっとうな社会や人間関係に適応できなくなり、似たような薬物好きの相手やコミュニティに飲み込まれていく。

通常、人間は快楽や喜びを感じるために、現実社会で働いたり他者とコミュニケーションしたり遊んだり、誰かを誘ったり、何かに挑戦したりと色々な活動をしなければならないが、それらの現実的・対人的な活動の多くは『失敗するリスク・達成するためのストレス・やり遂げる面倒くささ』があるため、ドラッグと比べると不確実でコスト(面倒)やリスク(挫折)が多いもののように感じられる。

現代のストレス社会や格差社会では、『現実・他者から得られる快感・喜び』よりも『ドラッグ・物質から得られる快感・喜び』が勝ってしまうという心の弱さや誘惑への抗いがたさが出てきやすい。現実逃避や他者不信、まっとうな努力が行き詰まった結果として、安易にドラッグ(向精神作用のある物質)に手を出す人が増えやすくなる。

公権力が精神に作用するドラッグを禁止する理由には、幻覚・妄想やドラッグ使用の運転によって『他者に危害を加えるリスク』があったり、『反社会的勢力の収入源になる可能性』があったりということもあるが、『現実の努力・他者との関係を抜きにして自慰的快楽に溺れるドラッグ』の性質そのものが脱社会的・自己完結的であるからという理由もあるだろう。

『現実・他者から得られる快感・喜び』と『ドラッグ・物質から得られる快感・喜び』が同じ価値だと認めてしまって、みんなが自己完結的に薬物で幸せや快感を感じて廃人のようになっていけば、既存社会や労働環境の前提そのものが崩壊してしまい、他者や現実の報酬を求めなくなった人は生産的な活動を努力してまでしなくなる恐れがあるからである。

インターネットや仮想現実を批判的に見る人の価値観にもつながるものがあるが、ドラッグをはじめとして『脳・薬理作用(生理学的変化)だけで興奮して快楽を得るライフスタイル』というのは、究極的には現実社会や他者との人間関係を否定するような『脱社会的・他者否認的な生き方』を意味しやすい。

屋外でずっとスマホをしている人を見て、気持ち悪いなどの不満を述べるような人の心理にも、『現実社会や他者との人間関係よりも脳内の情報環境の快楽ばかりを優先する自閉的な行動様式が嫌だ(何となく自分や社会、他の人なんかどうでもいいというような雰囲気を感じる)』というのがあるかもしれない。

外部や他者をあまり必要としない『脳内だけの興奮・快楽』を突き詰めれば、ドラッグ(薬物)やスマホ(情報)のジャンキーになってしまう人も出てくるという話だが、現代はネットにせよスマホにせよドラッグにせよ、ある意味では『脳』だけを生理学的に興奮させて『現実・他者との関係』はできるだけ控えようとしている人が増えているのかもしれない。

その極端な不適応者の事例として、有害なドラッグ依存のジャンキー、情報依存・他者不信のひきこもり、アルコール依存のアル中などを想定することもできるが、脱法ドラッグに手を出す人の増加に対する警鐘としては、『あなたはなぜ“脳”だけで気持ちよくなろうとするのか?現実や労働や他人を面倒くさがるのか?』というフレーズが妙にしっくりとくる。