家庭環境や親子関係が悪い事は“殺人(犯罪)の免罪符”にはならないが、

『生命・人生の価値』を学べない劣悪・冷淡な環境で育てられた人や誰にも大切にされていない孤独感を抱えた子供のほうが、そうでない子供よりも性格形成プロセスにおいて精神的な悪影響を受けやすいという現実は深刻な問題として今も昔もある。

<高1同級生殺害>自分のことを「僕」1学期は登校3日

殺人のような凶悪犯罪にまで至る子供は少ないが、『親からの虐待・ネグレクト(無関心)・裏切り・親の反道徳的な生き方』は子供の心や性格構造に深刻なダメージを与える。

自分の生きている価値が分からないから(現状が孤独でつらくて親・他人・社会が憎かったり軽蔑したりしているから)、他人の生命の大切さ(先生・みんなのいう生命の尊さ)も共感的に実感しづらいという反社会的性向を強める恐れがある。

未成年者の非行や暴力、犯罪集団化、いじめ、軽犯罪、ひきこもりなどの背景には、『親からの虐待やネグレクト(子の放置・子の教育の責任放棄)』や『学校と家庭の両方での孤立化(話せる共感し合える相手の不在)』、『親の反社会的・反道徳的な言動の影響(見せかけの外面だけは適応的だが家庭内では冷淡さ・虐待・DV・不倫があるなど)』などが見られることが多い。

家庭環境が悪いから、親から愛されなかったから(父親が妻子を放置して好き勝手に遊んでいたから)、唯一の理解者だった母親が死んだからといって、無関係な友人を殺したり傷つけることは正当化できないし、それは『本人の甘え・身勝手さ』に過ぎないという厳しい意見も多くある。加害者よりも人生を強制的に奪われた被害者のほうが酷い目に遭っているというのも、殺人という重大な結果から見れば当然の意見である。

似たようなつらい家庭環境や親子関係の中で育ってきた人でも、犯罪や迷惑行為をせずに一生懸命に自分の人生を真面目に生きてきた人だっているというのもその通りだが、みんながみんな、過酷な親子関係やつらいストレス環境を無事に乗り越えてまっとうな人生・価値観(他者を敵視せずに良心を培って社会で協調する生き方)に適応していけるわけではない『現実の問題』は残り続ける。

親からの虐待・育児放棄・家庭崩壊、友人からのいじめ・無視・仲間外しなどの酷い目に遭わされた人の場合、『親・友人を反面教師にして過去のトラウマを克服していける人』と『親・友人への怨恨や不信を社会一般(他人すべて)にまで拡大して過去のトラウマに拘束され続ける人』との二つの人生の経路に分かれやすい。

更に過去に縛られる後者は、『ひきこもり型(非社会的・社会逃避的な性格形成)』と『嗜虐指向・攻撃型(反社会的・秩序破壊的な性格形成)』に分岐しやすく、嗜虐性と攻撃性を強めた人のごくごく一部が『他人(自分)の生命・人生の価値が分からない』という信念に基づく凶悪犯罪を引き起こしてしまうことがある。

大人になってから少年の凶悪犯罪を見ると、『人を殺してはいけないという自明な倫理規範』を計画的かつ意図的に侵して人を身勝手な理由で殺しているのだから、少年の加害者は甘えているか傲慢不遜な異常者であるかという風に見えやすいが、『子供のその時点の性格・価値観の大部分は、それまでの家庭・親・学校・友人によって作られている』ということを見落としやすい。

10代半ばくらいの劣悪な家庭環境や不適応な学校生活で育ってきた未成年者であれば、大人のような『社会一般の常識的な視点・普遍的な人権と道徳のルール・多様な人間関係から学んできた共感性』よりも、『自分が生きてきた家庭・学校・人間関係から教え込まれてきた偏った価値観や生命倫理』という非常に狭い世界で学んだ善悪や判断基準によって『間違った行動・考え方』へと突き動かされやすい。

『自分が生きてきた家庭・学校・人間関係の外部にある普遍的で一般的なルール(社会や他者との共生を成り立たせるための物事の考え方)』といったものを、小学生~高校生くらいの年代ではそれほど自由自在に発想して思考できるわけではないし、『自分の実体験の苦しみ』を無効化できるほどの知的基盤や読書体験、関係の多様さ、思想・信仰など持ち合わせているはずがない。

かなりの部分が『自分が今生きている家庭と学校での生活状況や人間関係』に縛られた考え方しかできないわけで、『今の自分が孤独でつらくて惨めであるにも関わらず、世の中のルールや愛情・好意はきちんと別のものとして存在していて自分も頑張ればその恩恵を受けられる』という自分自身の経験や現状を脇に置いた客観的・普遍的な思考はなかなかできない(人によっては大人になっても自分の現状を脇に置いた社会・他者との一般原則の思考はできないもの)だろう。

更に現実の家庭生活や母親の死・父親の再婚を通して、『自分が親から見捨てられていて、誰からも愛されず必要とされないという認識』や『父親は母親を愛していないし、母が死にかけたら別の若い女に乗り換えた、母の死を悲しまず更に自分も邪魔者にしている(自分も母のように役に立たなければ捨てられる)という思い』を経験的な信念として確立してしまったと推測されるため、『自分と同じように他人も大切な存在であるという共感性・倫理観』を形成するための機会や思考の余地を潰されてしまった感がある。

社会のあり方や多様な他者との接点が少ない子供は、『閉じた経験世界(家庭・学校)で教えられてきたと感じるファンタジー』に影響されやすいが、そのファンタジーが理想的な愛情や信頼、友好、楽しさ、希望を反映したものであれば性格の捻れは少なくて済むが、人間や人生の価値がないように思わせたり未来の希望などないと思わせるようなものであれば性格の歪み(ひきこもり・反社会性を生む要因)はどうしても大きくなる。

『人を殺してはいけない』という殺人禁忌の倫理観は絶対的なもののように思われやすいが、小さな頃から『仮想敵への憎悪・怨恨・復讐・攻撃行為』を肯定的なものとして教え込まれてきた中東・アフリカの少年たちの中には、大人になってテロリストや義勇兵・志願兵になって人を殺せる人間(人を殺すことの悪を認識できない人間)に育ってしまう人も出てくる。

こういった子供たちに、『何があっても人を殺してはいけない』と諭しても恐らく全く通用しないばかりか、一般的な人権尊重の倫理観や人道主義を語る側の人間を『見せかけだけの嘘つき・人が人を殺す現実を認識しない平和ボケ』と非難してくるだろう。

治安の安定した先進国における凶悪な少年犯罪は、社会や周囲の人たちが『(どんな理由があっても)人を殺してはいけない』という殺人禁忌の倫理観を重んじていて、実際の殺人が極めて少ないために、『理不尽な殺人を犯す人間・少年』はサイコパス(人格障害)の異常者と見なされやすい違いはある。

しかし、子供にとってはほぼ人生の全てのように受け取られる『閉鎖的な狭い世界
(家庭・学校)』における『児童虐待・DV(配偶者の侮辱・虐待)・ネグレクト・孤独・冷淡・裏切り』といったものは、『子供のリアリティ(現実認識)の大きな歪曲』を生み出す恐れがあり、親・他人や社会を信用せずに敵対するスタンスを固定してしまうことがある。

戦地・紛争地帯の子供は、『人間は人間を物理的に殺すことがある恐ろしい存在である(実際に自分の親や親戚も殺されてしまったのだから、いつか俺も敵を殺して悲しませてやる)』と経験的に思い込ませられることがある。

それと類似した構造で、閉鎖的な環境でネガティブな大人(親)の人間性をずっと見せつけられてきた子供は、『人間は人間を精神的に殺すことがある冷淡な存在(人を大切にするという見せかけだけの心や綺麗事の言葉はあるが、実際には親でさえ妻子を捨てるという人間は倫理観・思いやりに欠けた忌まわしい存在)である』という経験的な自己洗脳をしてしまう恐れがある。

子供の健全な性格形成(他人に危害を加えない考え方の構築)にとって家庭環境や親子関係が重要であるという理由の一つは、家庭生活や親の言動を通して『人間性・人間関係・社会生活についての間違った悲観的かつ攻撃的な学習』をしてしまう恐れがあるからである。子供の年齢が小さければ小さいほど、『家庭・学校の外部から得られる多様な価値観や生き方のモデル』に触れることが殆どできないため、『親・友人・先生からの悪影響』というのは実際よりも大きなものになってしまうだろう。