7月1日に、集団的自衛権の行使容認の閣議決定:憲法9条の憲法解釈の変更はどこまで許されるのか?

憲法9条をストレートに読めば、自然権である個別的自衛権とは違って集団的自衛権が行使可能と解釈できる余地はない。閣議決定で『実質的改憲』に相当する解釈変更が許される法的根拠もない。

憲法解釈変更、7月1日閣議決定=菅官房長官が表明―集団的自衛権

国家の最高法規の改憲に相当する自己流解釈に対して『国民の理解』を求めても仕方ないし、本来そこまで飛躍した解釈をするなら『両院における改憲発議』をまずしなければならない。『国民全般が理解・同意したか否か』など実際には確認しようがないわけで、今すぐ集団的自衛権の行使が必要という具体的根拠も乏しい。

日米安保条約に基づく日米同盟は『日本国とアメリカ合衆国の安全保障』を目的にしているが、安倍政権が集団的自衛権を強調する理由として『米国からの双務性の確認』があったとも言われる。

だが、日本は在日米軍の駐留を許可し軍隊の維持費の一部を負担して、米国の太平洋地域におけるプレゼンスの拠点を提供しているので、現状でも米国だけに負担を押し付ける片務性に偏っているわけではない。

仮に集団的自衛権を容認するとしても、日本は『アメリカ合衆国の国土の防衛(グアム・ハワイなど)』に協力する義務を持つに留まり、『米軍の展開する戦争・作戦(アメリカ軍が攻撃を受けた場合すべて)』に対して共同防衛の義務を持つわけでは当然ない。

集団的自衛権の行使容認は実質の改憲なので、本来は改憲手続きを取るべきだが、アメリカとの集団的自衛権を論じるに当たっては、『米国の個別的自衛権(本土が攻撃・侵略される事態)に対する共同防衛』と『米軍の戦争・作戦全般(米軍が外国に攻撃されたケース)に対する協力』の境界線は意識しておくべきだろう。

例えば、湾岸戦争やアフガン戦争、イラク戦争のように、アメリカが『本土防衛・個別的自衛権』とは無関係に『世界の警察・対テロ(9.11)の事後的な報復戦争・独裁政権の転覆』などの理由で断行した戦争には、日本は共同防衛の義務を負う必要はないということである。

安倍首相は米国に対してイラク戦争のような具体名を 上げ、『アメリカ本土が侵略・攻撃される恐れが低い状態(テロのセキュリティと対国家の戦争が混同した状態)』では日本は米軍の戦争には武力行使をする軍事的協力はしないという方針をきちんと説明しておいたほうが良いかもしれない。米軍の様々な形態や理由による戦争に巻き込まれる蓋然性を減らし、双方の本土防衛に焦点を絞るべきだ。

憲法9条の戦争放棄・平和主義の精神は、国連憲章の精神とパラレルなもの。国連憲章は『戦争の違法化』を唱え『国連軍(唯一の合法的武力)による世界の平和秩序維持の理想』を語る一方で、『常任理事国の拒否権・体制と価値観の差異』という限界によって、アドホックな集団的自衛権の必要・容認を導いているのである。

国連憲章の理念は、国家の戦争の歴史が『自衛権(相手が攻撃してくるから)』を大義名分にして戦われてきたことを前提にしており、原則論としては『国連から独立した国家の自衛権』を安保理が決定的な介入をするまで持ちこたえる暫時的なものと見なしている。だが安保理の内部対立で国家の自衛権のほうが前面に出やすい。

国連憲章51条の集団的自衛権は、『この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない』として、国家ごとの個別的・集団的自衛権の上位にある紛争解決手段として安保理の強制措置を置いており、安保理及び国連軍が介入するまではそれぞれの国で自分たちを守れという形式になっていた。

しかし、現実には安保理・常任理事国の平和秩序の認識の不一致、世界の判断基準を統一した上での国連軍結成の困難に阻まれ、有志連合・軍事同盟の集団的自衛権に有効性が認められる状況が続いている。

集団的自衛権の行使要件は『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』で、国家の存立危機は個別的自衛権より行使のハードルは高そうだが、解釈の幅があるので厳密に守られる保障がない。