集団的自衛権と『日米同盟・中国の仮想敵国化・世界の平和と安定への貢献・徴兵制の懸念』をどう考えるか。

国民の生命・財産を守る安全保障は、本来EUの如き地域共同体・価値の共有に近づく方向性でないと破綻する、『仮想敵国・抑止力の安保』はアドホックなだけでなく国民が国内の権力・制度に使役される。

<沖縄・長崎>体験者、語り継ぐ決意新た「もっと危機感を」

独裁体制で人権が守られない国、軍が国内で大きな権力を握る国では、『仮想敵の設定・思想の統制(反対者の弾圧)』によって、建前では『国民を対話不能な外敵から保護する権力の正当化(そのための思想教育)』を図り、『反権力・自由主義者・平和主義者を無責任な非国民(敵性勢力)』として弾圧する。

集団的自衛権と徴兵制は必然的なつながりは持たないが、『野蛮・残酷な外敵と戦うために一致団結する必要性の喧伝(協力しない者の差別・排除)』が強まれば、『国家のために自己犠牲を払う事を善とする教育・メディア』となる。徴兵制を敷かなくても『好戦的な世論・仮想敵の憎悪・格差と貧困の拡大』はその代替効果を持つ。

安倍政権の集団的自衛権の性質を考える一つの試金石は、『個人の自由や尊厳を重んじる教育』を続けるか、『国家の為に生命の犠牲さえ厭わない事(共同体の部品化)を名誉・使命とする教育』にシフトするかにあるとも思うが、徴兵制自体が問題というより『復古的な被支配者・戦争不可避の国民精神』が懸念される。

鉄の暴風で県民の25%近くが戦死・自害した沖縄県の戦争体験者は、『国防・戦陣訓の強制』と『侵略の被害』が表裏一体のものとして記憶され、戦時体制の本質が『国民の生命・財産の最優先』より『上官(権力の後ろ盾を持つ者)の横暴と国民の被支配性』にある事を知っている。現代の戦争も然りだが。

戦争の悲惨さや虚しさは『戦争の主導者・権力者・軍需産業(戦争から利益や権限を引き出す者)』と『現場で戦い死んでゆく末端の兵士』との立場の落差にあり、その視野の違いでもある。戦争は人を人として扱わない冷徹な合理性や個人の道具化がなければ遂行できず、国防・戦闘の大義の前に人の生命や尊厳は軽くなる。

集団的自衛権を行使する大義名分を『世界の平和秩序・虐殺されている人々の救助支援』などに置けば、一国平和主義からの離脱として国民の同意の元に了承される余地もあるが、武力行使以外の貢献手段も多くある。『日米同盟の強化・中国の仮想敵国化・軍産複合体の思惑』等なら、一般国民には無益な憲法解釈となりそう。