失神ゲームの暴行による中学生のいじめ:『人の嫌がる事を面白がる心性』を越えられない人・社会の問題

仲間内で『理不尽なルール』を作って、それに違反したという理由で痛めつけたり金を強請るのはいじめの類型の一つだが、『人の嫌がる事が面白い心性』は野蛮・卑劣だがある種の人間の業でもあるか。

<失神ゲーム>4少年、中3被害者に度々暴行 東京・東村山

いじめは、悪意・嗜虐性・劣等感を抱えた『影響力のある個人』を中心にした集団力学が生み出すものだが、そこには『人の嫌がる事を面白い娯楽とする心性・笑い』が関係する事が多い。

いじめで得られる『擬似身分制のような格付け』によって劣等感を補償したりサディスティックな優越感(支配欲)を満たす虚しい行為だが、完全になくなることは恐らく有り得ない。

客観的には『人が嫌がる姿・苦しんでいる表情』を見るのは快感よりも不快なものだが、特に思春期で見られやすい『人間の笑いの種類』の一つとして、自分よりも弱い立場の人を虐げたりバカにして笑う『優越感ゲーム』のような事態は起こりやすい。

お笑い番組等でも『格下の者の馬鹿さ・惨めさを笑う構図』は多いが、ある程度いじめ問題に意識的な人であっても、そういった『笑われる側も自虐的に容認しているような笑い』にはつい同調的に笑ってしまいやすく、それがいじめ的な笑いが人間にとっての業ではないかと思う所以でもある。人の嫌がる事はしてはいけないの倫理は誰でも知っているが、集団力学・場の空気で倫理が容易に壊れ得る。

人間は一人で考える時には倫理的・人道的な人であっても、『三者以上の人間関係・力関係の集団力学』の中に置かれた時には、『一人でいる時に選択する言動』とは矛盾してしまう事がある。それは、『一人で過ごす時間を楽しめる人・それぞれに内的世界がある事を知る人』がいじめをしにくい人である事を示唆してもいるが。

いじめの加害者(中心人物)は概ね『一人で過ごす時間を楽しめない人(落ち着きがない人)・常に仲間の集団を集めて群れたがる人』であることが多く、一人で行動できる人がいじめをしたケースは余り聞かない。加害者は『誰かに構っていないと自分の存在意義を実感できない内面の空虚さ・寂しさ』を抱えているのだろう。

その意味でいじめの加害者が『遊べない日以外は遊ばなければならない・仲間を抜ける時は殴る』というルールを設定し、『遊びたくない被害者』に何とか構ってもらいたいとしていたことは象徴的だ。似たルールは不良グループや暴走族、暴力団等にもある。一人で過ごす内的世界の強度がない為、供犠としての他者を求める傾向。

拒否した異性につきまとうストーカー問題とも重なるが、現代社会の基本ルールは自由意思と合意によってしか他者と関係を結べない事にある。いじめの問題でも『遊びたい加害者』は断られれば本来は遊べないのだが、それを無理強いしても遊ぼう・構おうとするのは『断られた現実』を受け容れられない弱さ・しつこさでもある。

ストーカーやいじめの問題に共通する問題点としては、『言語レベルのコミュニケーションが通用しない』ということでもあるが、『人の話をしっかりと聞く・相手の自由意思(返答)を聞いて受け容れる・自分の孤独や一人の時間の虚しさに負けない内面を作る』といった辺りから、加害者の矯正教育は始まるのかもしれない。
しかし、イスラム国の非人道的侵略とか北朝鮮のミサイル開発とかもそうだが、『言語レベルのコミュニケーションが通用しない人間や集団の問題』は非常に根深い、相手の言葉と自由意思をしっかりと聞いて、暴力や犯罪、非人道的行為に訴えずに対応することさえできればとは思うが、それができないのも人間の業なのだろう。