連れ添った夫婦の性関係はなぜ減少しやすいのか?結婚制度の歴史と異性関係のリアルな心理

生活時間を長く共有すると性的対象として見づらくなるのは、人間の生理学的な脳機能とも関係した普遍的変化で、性愛を生殖以外の刺激・楽しみとして見れば、家族制は『非自然的=倫理的なもの・意識と責任感で貞操を守るもの』と言わざるを得ない部分もあるのだろう。

性交渉のない既婚男女増加=若年男性「草食化」も―家族計画協会

日常生活の繰り返しと性愛の刺激との両立困難性、夫婦間の性的興味の低下は、今に始まった問題でもない。近代初期にも旦那衆等と呼ばれた富裕層は『生活の為の本妻』と『楽しみの為の妾(愛人)』を別枠とした。浮気は男の甲斐性や旦那(パトロン)・妾という言葉は、現在では男女差別の概念だが、性愛に関する人間の動物的本性の抽出か。

近代的な結婚制度や家族制度は『一夫一妻のエートス』によって、労働意欲や社会秩序、男女の充足感の形式的平等(外見・財力の性愛格差の隠蔽化)を支えているが、『浮気・不倫をされる不安感や倫理的な怒り』は昔のように必ずしも女性に特有ではない。男女間の主観的な力関係の認識に基づき被害感は変わる。

女性原理や女性の性的魅力の優位が強まる現代では、『女性に振られる・裏切られる悲しみや未練』を抱えた男(ストーカー化・うつ化男)が増える現象面の変化もある。この特定の男性(女性)から裏切られたり捨てられたりしたら生きていけないの『主観的な力関係の認識』は、『心理』と『経済』の二面から見る必要がある。

モテる相手に惚れた弱みの『心理』の面もあれば、経済支援・扶養を失ったら自立が難しいの『経済』の面もある。そこを『愛情』によってつないで表面化させずに済めば男女・夫婦の関係は安定する。

昭和初期の旦那衆の一部は『女性の雇用や稼ぎがない社会構造』に寄りかかり、家を離れて生きる手段を持たない本妻を軽視したりもしたが、女性が自力で長期間にわたって経済的に自立できないこと(故に男性に扶養して貰わなければならないこと)が、『皆婚時代』の社会的・職業的な背景としてあったと考えることができる。

一昔前、夫との性交渉を『夜のお勤め』の概念で表現していた時期もあるが、これも『妻が望んでセックスしたい相手=夫』であるかの懐疑で、昭和末期までは『女性の能動的・選択的な性欲』は神話的に“無いもの”とされてきた。夫の仕事と妻の家事育児と性という役割補完の生活のための結婚は、半ば常識として受容された。

現代に至る不倫・離婚の増加が何を意味するのか、社会学的な社会変動論の立場からすれば、『男女の性別役割分担が薄れて(全面的に生活・仕事を男性に依拠する女性が減り)男女が意識面でフラット化したきたこと』や『女性が本音・本心を隠さなくても生きていける社会経済的・道徳的な状況面の変化』が想定される。

規範的・世論的に女性の立場(自由の度合い)が弱かった時代には、反対に男には『妻子・愛人を終身に近い長期にわたり保護・扶養する義務』が科せられた。逆説的に男がそこまでの保護・扶養を与える財力や責任感を失ったが故に『女性の終身的・性的な忠誠心のレベル』も落ち『好き嫌い・選択的状況判断』が強くなった面も。

矢口真里の不倫騒動は、男よりも女により強固な性的道徳観念と選択的な性の抑制が求められるジェンダー規範を浮き彫りにした珍しいケースワーク。女性の浮気・性的奔放は、男性以上に『淑女(妻)と娼婦(愛人)』の価値対立的な二元論にはめ込まれて集中砲火を受けるが、この図式は結婚制度・性道徳の根幹に絡んでいる。

コンテンポラリーな『現代』の時間軸をすべて射程に入れるなら、草食化・セックスレスを含め『相対的な生身の人の性(性愛)の価値低下』を語らなければならない。ネット社会以前の『性(性愛)の価値・異性にモテる優先度』は現在からは考えられないほどに高かった。近代初期には、性的な自己受容は(男性が自分の性的欲求を女性に受け容れてもらえることは)、自分の人生を賭けなければならないに近いほどの責任感とセットであった。

本当に好きになった人との情的なつながりや排他的ロマンスなどの要素を抜きにドライに考えれば、結婚制度の価値と対立(二極化)する不倫や性産業の氾濫は、『集中投資する一夫一婦制の信任・効用の低下』と『若年女性の貧困化・崩壊家庭増加』の兆候を伺わせる。企業の雇用が男性を守らなくなった事も間接的に相関する。