民俗学者・折口信夫の『国家神道・靖国神社の捉え方』と個人史のエピソード

日本の民俗学の巨人といえば柳田国男(やなぎだくにお,1875-1962)と折口信夫(おりくちしのぶ,1887-1953)になるが、折口信夫の『古代研究』は記紀時代の日本人の精神・文化の起源が、現在あるべき日本人の精神・文化・価値を規定するという『規範的な伝統主義』に立脚していた。

柳田国男は言うまでもなく、天皇制国家を日本の普遍的かつ歴史的な常態とする『皇国史観』の民俗学的・文献学的な基礎を、物語的説得力の中に確立した国学の思想家である。柳田も折口も江戸期からの国学の時間的な流れの上では、記紀を根拠に『神国日本(神道の自然的な現れ)』を掲げた本居宣長(もとおりのりなが)の思想の継承者でもある。

本居宣長は『天皇の種(血統)』こそが、神国日本の本体(国体)であるというラディカルな貴種崇拝原理を信奉したが、この基本的な国家観は近代日本の戦争期において『国体=天皇制国家(天皇の血筋こそ日本の本体)』へと結実することになった。

折口信夫はアジア太平洋戦争における東南アジアや太平洋の島々への軍事的な南方進出を、記紀の『国生み』に喩えるなどして八紘一宇の戦争に協力的・肯定的な思想家でもあったが、柳田に薫陶を受けた折口の日本起源論では太古の時代に日本本土から南海に分離されたとする『沖縄』こそが『日本の原郷』であった。日本人の原初的な領域・生態を沖縄県(旧琉球)周辺に求める南島イデオロギーのロマンスに突き動かされた。

日本軍の軍事的な南方進出は、折口信夫にとっては記紀の神話伝説の再現であり、日本の原郷である沖縄県から更に南へと『本来の日本の原初的領域』を回復する運動として太平洋戦争は捉えられていた。あたかも小中華思想のごとく、日本の原郷・原風景が沖縄県よりも更に南へと無限延長し得るという世界観がそこにはあった。

更に『古代・前代を模範や規範とする価値観』は、折口に対して近代化によって急造された『国家神道・靖国神社(護国神社)』をどう捉えるかという難しい問題を突きつけた。

折口は『ローカルな民俗学における神社(鎮守の杜)の土着の位置づけ』と『ナショナルで人工的な国家神道(国民動員の装置)』との矛盾について批判的な視点が皆無だったわけではない。折口自身は国家神道よりも、近代以前の神道の霊的・自然的な宗教性を取り戻そうとする『教派神道(宗派神道)』を重視しており、神風会という教派神道の団体に参加したりもしていた。

だが、古い神社をめっぽう好んだ折口は、自分の弟子の多くを古い神社の社家の生まれ(後継ぎ)の者で揃え、最終的には国家神道の招魂の儀礼(戦死者供養)の効果を認める立場に傾き、柳田の説く『家(存続)』の価値の普遍性を承認することとなった。折口信夫の学風や国家理念の影響を受けた弟子の多くは、國學院・皇學館といった皇国史観を担う学校教育の中枢本部の関係者であったり後の指導者であったりした。

また、折口の民俗学の著作だけを読んでいては分からないこととして、折口は極度の女性恐怖症(あるいは女性嫌悪・蔑視)があって、生涯女性を近づけない同性愛者であった。初恋の相手で同居していた藤無染(ふじむぜん)は男の美僧であり、その後の20歳下の愛人の藤井春洋も弟子筋に当たる男である。

当然、同性愛者の権利や婚姻制度などあるはずもない時代であるから、折口は藤井春洋(ふじいはるみ)と結婚する代わりに自らの養子(嗣子)にして入籍したというが、このパートナーの折口春洋が1945年3月19日に硫黄島の戦いで戦死し、折口は靖国遺族となることを受け入れている。

もう一つは、S.フロイトではないがかなりのコカイン中毒者でもあり、私生活そのものは放蕩無頼である。金遣いのほうも、弟子に惜しみなく食費・旅費などを振る舞うという意味で荒かったというが、同性愛の相手とされる弟子の鈴木金太郎と藤井春洋などが折口家の家計を節約しながら管理していたとされる。

同性愛と教育的な師弟関係が不可分というのは、近代以降のマジョリティの異性愛の感覚(男女のヘテロセクシャルを正常とする感覚)や教育者としての職業倫理からは受け入れがたい感覚がある。

だが、時代の軸をずらせば古代ギリシアのソクラテスやプラトンなども、哲学的な教育者の顔を併せ持つ同性愛者(バイセクシャル)だったと考えられていて、『男女間(ヘテロセクシャル)の性愛』とは異なる『公共的・学術的な目的を共有する同志愛』のようなものが含意されているのだろう。

元々、男性同士の性愛というのは『(女性排除の)戦争共同体の連帯・団結の必要性(生命の預け合いの信義確証)』から生まれたという説もあり、日本においても戦国時代から安土桃山時代までは、ますらをぶりを誇る戦国武将の衆道(同性愛)は織田信長・武田信玄をはじめ珍しいものではなかった。

逆説的だが、男の同性愛者(非トランスジェンダーの同性愛者)にはなよなよとした女っぽい者よりも、むしろマスキュリンな筋肉強化にこだわった三島由紀夫や謹厳実直な教育者・研究者の顔の強い折口信夫のように、どちらかというと男らしさを極度に強調する人物に多いともされる。

三島も折口も性同一性障害(トランスジェンダー)ではないので、男としての自己アイデンティティや外観を持ちつつも同性の男を愛するというタイプであり、男である自分の生物学的特徴を否定するタイプ(性転換手術・女性ホルモン投与を望むようなタイプ)の同性愛者と異なるのは無論のことである。

高名な学者・大学教授であった折口だが、常に研究のフィールドワークに複数の弟子を伴いそのすべての出費を支払っていたため、その死後には葬式を出せるか出せないかの僅かな金額しか貯金が残らなかったという。

折口信夫の個人史や私生活に関する文章が長くなったが、皇国史観に『古代研究』が流用された折口が『国家神道(近代化・国家主義化した神道)をどのように捉えたのか』という点については、『招魂の御儀を拝して(昭和18年7月)』という文章が参考になるだろう。

1943年4月23日の宵闇の中、折口信夫は靖国神社の『招魂の儀』に初めて参列して、その時の情景と感想を短い文章の中に書き留めている。そこにはこうある。

祭りが始まるのを待つ間、かつての地方の神社などの「夜の御祭り」を見学した時の「深厳」で「尊い夜の記憶」が甦ってきた。そして筵の上に並んで座っている「遺族の方々」の間を歩みながら、彼らの姿の中に民俗探訪の旅の途中、磯ばたや山の崖道、あるいは畑の中で出逢った人々と同じ顔や姿を見かけ、何とも懐かしい気持ちになった。やがてほのぼのとした月の出が近い明かりの中、神主や神人に担がれた「御羽車」という神輿に招き寄せられた、多数の戦死者の霊が本殿へと向かっていく。

こういった靖国神社のナショナルな招魂の儀(戦死者神格化の供養)を、折口は「国々の古い社の祭りの夜の御神幸」というローカルな神社の宗教機能に還元しようと試みながら、「神」となっていく日本人への永遠の別れを眺める老婆に「日本人の底知れぬ強さ」を感じ取ろうともする。そこで以下の歌を詠んだ。

大君は神にしませば、ますらをのたまをよばひて、神とし給ふまのあたり、神は過ぎさせ給へども、言どひがたき現身(うつしみ)、われは

一読すれば、折口信夫は国家神道や靖国神社の招魂機能(戦死者の神格化)を肯定的に受け取って、戦死者の魂を呼び出して神にできる天皇の権威を讃えているようにも読める。

だが、一方で近代的な戦争推進作用を持つ国家神道のキーコンセプトである「英霊・鎮魂・護国の神」という言葉は使っていない。どちらかというと「国家的な祭祀・国民動員の宗教活用」の現実(急ごしらえの近代化・脱宗教化された神道)を何とか否定しようとして、古代的な山間や海辺の村落で連綿と行われてきた「民俗的・土着的な祭りと霊的な信仰」のカテゴリーに靖国神社の招魂の儀を無理やりに当てはめようとしているようにも見える。

「近代的な国家主義(政治活用・国民動員)を前提とする垂直統合の神社・神道(形式的な神社祭祀)」と「前近代的な農村・山間・海辺で素朴に信仰されてきた民俗的な鎮守の杜・神道」のどちらがより本質的な神道かと問われれば、後者の民俗的な信仰に根ざした神道であるが、それと同時に神道・神社は天皇の祖先神(日本の起源的な神話)や天孫降臨伝説とも関係していて、国家・権力と無関係な宗教ではないという特徴もある。

折口本人は近代化・体制下された国家神道について、内務省神社局が管轄する「国家の祭祀・国民の道徳」を中心としたものであって、「宗教としての霊性・純粋性」を失ったものだと考えたが、それは国家神道は「霊魂の救済・死者の世界(幽冥界)」を扱わない宗教だということを意味する。

明治期以降の国家神道は、というよりも神社・神道というものは、現在でもそうだが元々特定の教典・教義を持たない極めて特殊な宗教である。

つまり、国家神道は「国家の神社祭祀・国民の形式的な道徳」以上の「宗教的な霊魂・鎮魂・冥界・英霊」だとかいう観念を扱わないほうが普通であり、基本的には近代主義の「政教分離の原則」にのっとったものであった。神社の神官は国家の葬送儀礼に預かることはできず、宗教的な価値観の教導をすることが禁止されていた。その意味で、靖国神社というのは神社行政の例外的な宗教施設であるだけでなく、「政教分離の原則」さえも通用しない軍が管理する「聖域」であった。

内務省ではなく陸・海軍省が管轄した靖国神社は、「戦死者の霊魂(英霊)」を鎮めて祭るだけではなく、国民の信教・内面の自由を侵害しない国家神道の前提も否定して、「国教の神話(英霊の神格化)」を信じるか否かの選択を国民から奪うものでもあった。

戦死した英霊は神として顕彰されるだけではなく、死後に霊魂になってからも日本国を守る役割を与えられ、靖国神社は「護国神社(英霊の霊魂が日本列島を取り巻き守る国家鎮護・国防)」の総本山的・霊的な位置づけを与えられるに至ることになる。

この靖国神社の国民総動員的な鎮魂・顕彰・護国の英霊は、いったん近代化や政教分離によって「宗教性・内面の自由への干渉」を剥奪された神道(国家神道)に、再び「死後にも国家主義の信念を持った霊魂が残る」という宗教的・霊的な物語をもたらすことになったのである。

国民が「国家のための忠義・献身・自己犠牲(戦死の悲哀・苦悩の霊性的な救済と納得)」を抱くための宗教的・イデオロギー的な装置として靖国神社は機能しつつ、形式的な神社祭祀を担うはずだった国家神道においては例外と言える「招魂・霊魂の神格化・護国の霊化」という特権的な役割をも担うことになった。