映画『悼む人』の感想

総合評価 80点/100点

天童荒太の原作『悼む人』『静人日記』は随分と前に読んでいて記憶も曖昧だったのだが、映画冒頭の特異な宗教のような礼拝儀礼、ぶつぶつとつぶやき続ける『知らない故人(死者)の人生の良かった部分だけを心に刻み付ける述懐の言葉』を聞いて、死者をひたすらに偲ぶ旅を続ける青年が主役のストーリーを思い出した。

登山用のザックにソフトシェルのジャケット、擦り切れたジーンズといったバックパッカー風の恰好で、全国の事故・事件で死んだ死者のエピソードを親族・関係者から聞き、ひたすらに独自の述懐と礼拝儀礼で悼む不可思議な旅を続けている坂築静人(さかつきしずと,高良健吾)。

故人について聞き出せる範囲のことを聞いた静人は片膝で跪き、“あなたは誰かを愛し誰かに愛され、何々をして感謝され必要とされ、懸命に価値ある人生を生きてきました。わたしはあなたのことを覚えておきます”といった一連の悼みの文句を儀式的に述懐して胸に手を当てる。

親族でも友人知人でもない人間がいきなり、誰かが死んだ場所にやってきてそんな宗教的な儀礼を勝手に行っているのだから、常識的には奇人変人の類と見なされ、時にカルト宗教や悪質な冷やかし(嫌がらせ)と間違われて、あからさまな侮蔑・非難の言葉を浴びせられたりもするが、『死者の良い過去の記憶・好ましい性格や事績』について真摯に聞いてずっと覚えておきたいと願う静人の態度に、精神的な慰撫や感謝を感じる遺族も少なからずいる。

静人の悼みの礼拝儀礼は、『天』から何かを掻き集め、『地』からも何かを掻き集めて、胸の部分にまとめて祈るという形式だが、小説中では『片膝をついて手を天と地に向けてひらひらとさせる不可思議な動作による儀礼』といった描写がなされており、映画ではその悼みの儀礼が自然な一連の様式美を感じるような動作として映像化されている。

会社をやめて諸国を着た切り雀で放浪しながら悼みの旅を続ける坂築静人、彼が俗世を捨てたかのような生き方に導かれた原因は、自分を可愛がってくれた祖父の自殺にも見える奇妙な海での溺死、誠実な医師として懸命に働いていた親友の過労死である。祖父が死んだ時に母が『死者の記憶を胸の中に入れて忘れないようにしておきなさい』といった言葉を掛けてくれたが、静人は仕事に追われる忙しい日々の中で、決して忘れまいと思っていた医師だった親友の命日を忘れてしまっていた。

命日が過ぎ去った後、親友の命日を思い出した時に『いずれ誰からも忘れ去られて消えてゆく死者』『毎日のように膨大無数の死者が生まれて忘れ去られてゆく生者中心の無常の世界』が、俗世で自分のためだけに生きている静人に絶望的な空しさと危機的な抑うつをもたらした。

一時期はうつ病にも似た激しい希死念慮にも駆られていたが、周囲の事故・事件で亡くなった人たちの話を聞き、その人たちの生きていた頃の愛情と活躍、感謝、信頼、楽しみを深く知っていくうちに、『死者のエピソードについて可能な限り聞いて覚えておくこと(忘れないこと)』が、“私から離れた生きる屍”のような静人に宗教的回心とでも呼ぶべきような生きる支えをもたらした。次第に家にいる時間が短くなっていき、遂には擬似的な出家をしたかの如く、長期の終わる当てもない『悼みの旅』へ静人は旅立っていった。

週刊誌記者・蒔野抗太郎(椎名桔平)は、『飲む・打つ・買う』の荒んだ生活に溺れている無頼のジャーナリストで、幼少期に女好きの父親に捨てられた母が無様な自殺に近い薬物中毒死を遂げたことで、父親をはじめとする世の中を恨み、人間の善意や人生の価値など信じたことはなかった。

刹那的な快楽主義とニヒルな人間不信(人間嫌悪)を抱えて生きてきた蒔野は、見知らぬ他人の良い所を聞き出す『悼む旅』を続けている静人を見て、偽善者に対する不快感を感じて静人の本性を暴こうとする。

蒔野抗太郎は自分と母を無残に捨てた好色な父への怨恨を中核に持つ人物として描かれ、人と人との愛情・善意を信じない自己証明をするかのように、自らを『好色な無頼の悪人』に位置づけて毎日のように職場で部下にセクハラ発言を繰り返し、私生活でも違法な買春斡旋ルートで未成年の子を買い続けている。

ある日未成年の子を部屋に呼んだ時に、『父親が危篤との連絡』を受けて取り乱した蒔野は、その不良ぶった中学生の子に対して『こんなことをしているお前なんか生きている価値がない、恋人だと思い込んでいるチンピラはお前を利用しているだけ、ボロボロになるまで売春をさせられ薬を打たれてこのまま野垂れ死にするぞ。誰も親さえもお前のことなんかすぐに忘れて初めからいなかった存在にされる』と暴言をぶつけて部屋を飛び出した。

行きたくなかった葬儀に無理やり呼びつけられた蒔野だったが、誰からも愛されない最低の人間のクズだと思っていた親父が、後妻はじめ意外なほど多くの人に死を悼まれていたことにショックを受ける。

なぜこんなクズのような最低の人間の葬儀などするのか、何を悲しむ必要があるのかという憤慨に襲われるが、後妻の話によると晩年の父親はそれ以前とは人格も生き方も大きく変わっていて、最後の最後まで『抗太郎に会って謝りたい、謝らなければいけない』と訴えていたという。喉をやられて筆談していたスケッチブックの後半は息子に会いたいメッセージが大半を占めていたが、今更いくら謝っても遅いという反発心は強固であった。

葬儀の帰りに拉致され、少女を侮辱された意趣返しにやってきたチンピラの彼氏の仲間集団にリンチされて殺されかかる蒔野は、山中で土に埋められる時に少女の姿を認め、『俺みたいな誰にも愛されず覚えられないような人生だけは送るな』と叫ぶ。暴行を受けている最中、何か考えているように俯き加減だった少女だったが、チンピラの少年らが埋め終えた後、蒔野が埋められた居場所を教える匿名の電話を警察にかけていた。

子供時代からの親友同士だった暴力団員二人が風俗の女を奪い合って喧嘩をし、片方が拳銃で殺されたと伝えられていた事件現場で、いつものように跪き被害者となった男を悼もうとする静人に対し、蒔野は『こいつは少年時代から非行・犯罪を繰り返してみんなから嫌われていた。誰からも愛されたことなどないし、誰も愛したことなんてない、そもそも愛なんて分からないんだよ。世の中には死んだほうがマシな人間のクズもいるのが分からないのか。お前はこんなクズの何を悼むんだ』と食ってかかる。

静人は二人は子供時代から仲が良かったと聞いています、過去にはお互いを大切な存在と思ったこともあったかもしれません、女性を奪い合って喧嘩をしたなら、少なくともその女性を好きだったことにはなると思うのでと語り、淡々と悼みの礼拝儀礼と故人のエピソードの述懐をしてその場を立ち去る。その後の追加取材で、加害者が殺そうと思って発砲した事件ではなく、三人の人間関係も悪くなかったこと(殺された被害者の新たな人生の門出を祝おうとしていたがそのやり方がむちゃくちゃだったこと)が分かる。

悼む人である静人の基本姿勢は『どのような人間であってもどこか悼める部分を探して覚えておく+理不尽な事件に巻き込まれた死者であっても不幸な被害者としては記憶せず人生・性格の良かった部分だけを記憶する(遺族と一緒に加害者を恨むような記憶は共有しない)』というものである。

静人の定型的な遺族・関係者への質問内容は、『その人が誰を愛して誰に愛されていたのか、何をして感謝されたことがあるのか、何が好きだったのか何を楽しんでいたのかを知りたい』というもので一貫しているが、作中では『何人も残酷な方法で殺害した死刑囚でも悼むのか』といった反論が出されたりもする。

軽度知的障害のある中学生の少年が、同級生からのいじめによって一方的に殺害された事件は、加害者少年が地域の警察官の有力な一族だったこともあり、『喧嘩による不幸な傷害致死』として強引に片付けられた。日常的ないじめや主犯少年の明確な殺意が隠蔽されただけではなく、週刊誌に手を回して被害者の少年のほうが性格・行動・感情制御に問題(粗暴な非行歴)があったかのような印象操作をされていた。

加害者少年とその家族に激しい怒り・恨みを持ち続けている両親は、少年のことをずっと忘れずに覚えておきますと語る静人に対し、『ぜひ残酷な加害者少年と卑劣なその家族に対するこの怒り・恨みを私たちと一緒に覚えておいてくださいませんか』と願うが、静人は『私は少年がどんな人間だったのかについての記憶を覚えておきたいのです。加害者への怒り・恨みを覚えてしまうと、少年ではなくその加害者たちを恨んだり悲しい事件を思い出す記憶ばかりになってしまい少年の記憶が薄らぐのでそれはできません』と断る。

『両親に小さな頃から深く愛されて大切に育てられ、優しくてお菓子や花火が好きだった少年のことを私は覚えておきます』と言うと、少年の両親は『私たちにとって本当に大切な子でした。もっといろいろなことを覚えて帰ってください』と言って、昔のアルバムを次々と取り出して思い出話を語り始めた。

末期がんで余命の短い母、恋人から逃げられて未婚の母となる姉など、静人の家族の話題もいろいろとあるのだが、『悼む人』のメインになっている物語は、母がろくでもない男を家に連れ込んでDV被害を受け、娘の自分も強姦されるというパターンを繰り返す不遇な子供時代を送ったことで、人を愛する心を殺された奈義倖世(石田ゆり子)との『悼む旅による魂の再生』だろう。

奈義倖世は自分が大人になってからも、本心から男を愛することができない(自分からは好きになれない)気質や自己主張のないおどおどとした態度から、卑屈な男を惹きつけてなんとなく交際・結婚を了承し、自信がない男の劣等コンプレックスからくる支配性・暴力性を引き出して『DV被害・性被害』に遭い続ける。

夫からのDV被害を受けていた倖世を救い出したのは、寺院でDVシェルターを運営していた東大卒の切れ者の甲水朔也(井浦新)だったが、この甲水もまた静人・倖世とは異なった世界観によって『自分の生や人間の愛情を肯定できない異端者(サイコパス的な危険人物)』であった。

今までの人生経験や仏教的な思想から、真に他者を愛する愛情など存在しないとする甲水朔也は、大多数が語る愛情は『執着・自己愛』に過ぎないと喝破し、自分が愛されたいから愛するという執着(愛執)を超越する論理として『相手を殺せるほどの決して消えることのない記憶としての愛』を求め、倖世の孤独感を盾にとって洗脳し自分を殺させるのである。

死後にも『亡霊(倖世の妄想)』となってしつこく取り憑き続ける朔也は、もはやホラーの域になっていてやりすぎな観も強いが、『坂築静人・奈義倖世・甲水朔也
の三者関係』は『自分の生存を肯定できなくなった者+自分から他者を愛することができなくなった者(世俗の価値や愛情から切り離された生ける死者)』として定位されている。

『悼む人』とは『抽象的な喪の仕事を行う人』であると考えることができるが、坂築静人は『不特定多数の他人の死・愛・人生』に興味関心を持つばかりで『自分自身の生・愛』からは逃避的に目を背け続けている。

奈義倖世は過去のトラウマによって思考・感情が麻痺していて、『自分自身の生・愛』に対しての自律性を失い他率的に生きることによって、他人からの支配・洗脳の被害を受け続けている。

甲水朔也は『無常な世俗と人生の現実』に耐え切れなくなった繊細な感受性を亢進させた怪物のような存在だが、基本的には『自分で死にきれない未練がましい男』ではあり、『いずれ忘れ去られてゆく空しさ・寂しさ』の想像に怯えている。

坂築静人は奈義倖世が静かに後ろから連いてくる長い悼む旅を通して、人(女性)を愛する感覚を次第に取り戻すが、奈義倖世は精神的に依存し過ぎて洗脳された甲水との夫婦関係の反省もあり、『静人に愛される現状』に他律的に安住することを避け、自分一人で静人と同じような『悼む旅』を始めることを決断する。

『二人の悼む人』の出現によって物語は終焉するのだが、日々生まれては消えてゆく人の世の無常、人生と関係の儚さを前にして、静人と倖世はその普遍的な無常観の真理に抗うような『悼みの旅』を続ける。

覚えて忘れての記憶と忘却の歴史的な循環によって人間個人の人生は淡々と止めどなく流れてゆく。『私の生・死』と『他者の生・死』とに主体的かつ納得的にどう向き合っていけるかは、誰にとっても不可避な課題を持つある種哲学的、宗教的、現実的(実生活的)な問いかけでもあるが、“繊細さ・善良性(利他)”と“鈍感さ・功利性(利己)”のバランスを崩せば『自己の生の肯定』に危うい重圧がかかってくることもあるということだろう。