川崎市の中1殺害事件と凶悪犯罪に行き着きやすい不良文化・集団関係

暴力・非行・学年などで階層秩序が形成されるヤンキー文化は1990年代にはかなり廃れ、お洒落で丁寧な若者が主流になってきた印象が強いが、犯罪強制から殺人までいく不良集団があった事に驚きもある。

<川崎中1殺害>一体何が…目周辺にあざ、「殺されるかも」

この事件の加害者も含め、現代の不良はかつての暴走族やヤンキーと違い、分かりやすい外見・大声の示威もなく、格下に見た知人以外には暴力の雰囲気も出さないので、部外者にはどういった性格・価値観の人間かが伝わりにくい。『不良文化の時代的変質』もあるが、主犯格ではない取り巻きの未成年にしても、『殺人の共犯』まで行く集団に参加した不利益は余りに大きく取り返しがつかない。

『閉鎖的な人間関係における犯罪や暴力の問題』は、少年犯罪に限らずDV・監禁・モラハラなど人間社会の普遍的な悪事の根本にあるが、自分がどれだけ悪事ができるかを張り合う『虚勢・示威がエスカレートする集団心理』もある。参加・脱退が不自由そうな集団、権力・威圧で何かを強制される集団には近づかないが吉の処世術もあるが、若い頃はちょっとした誘いや誘惑、浮かれ騒ぎに引き寄せられやすい。

これは重大犯罪まで犯してしまう主犯格の少年にも言えるが、『自分の思い通りに動くように見える子分・手下のような仲間』を集めて虚勢を張っている時にこそ、『自分の人生の落とし穴』があると覚悟すべきである。悪事や犯罪によって自分の影響力を知らしめないと維持できない集団に変質してきた時には、自ら解散する度胸を持たなければ、自分も仲間も凶悪犯罪者にしてしまう危険性がある。

不良少年の集団心理に、他者を害する危険性が現れる兆候は、『みんなで遊んで騒いで楽しむという目的』が『誰かを供犠(スケープゴート)にして虐めたり使役したりする嗜虐性』に変化することにある。リーダー格にせよ取り巻き・子分にせよ『誰かの苦しみや痛みを自分の喜びにする暗さ』を改められなければ犯罪者に落ちるが、なぜか人は集団になると誰かを排除したり攻撃したりになりやすい面もある。

人としての道を踏み過らないための教育の根本は、『他人の苦しみ・痛み・つらさ』を喜ぶのではなくそれを減らすために動くことであり、『自分の幸せ・喜びと他者の幸せ・喜びとの共鳴』のために他者と付き合い集団活動を行うことだが、この『自他の苦楽の捉え方』がコンプレックスや嗜虐性向で歪む時に、集団犯罪は起こる。