自衛隊を軍隊と呼んでしまうことの問題は何なのか?:日本国憲法と歴史的文脈

安倍首相が『わが軍』という表現を用いた事の問題は、戦後日本には“攻撃的・侵略的な戦力”としての『軍』は憲法的にも実質的にも存在しない、最小限度の防衛力しか持たない自衛隊は軍とは異なると定義されてきたにも関わらず、敢えて『自衛隊』ではなく『軍』という概念を用いたことである。

■菅氏「自衛隊も軍隊の一つ」 首相の我が軍発言巡り

更に、首相である自分を軍隊の最高指揮官だと強調するかのように、『我が軍』という『国民の保護・合意』よりも『権力者の指揮・命令』に随従する軍隊(私兵めいた権力者に忠誠を誓う軍)をイメージさせる表現を唐突に用いたことである。

9条改正・国防軍創設・集団的自衛権・緊急事態法(有事指定による国民の一時的な人権停止命令・戒厳令)などを掲げる安倍首相が、『わが軍』という表現を用いれば、他の政治家とは異なる『首相である自分が(国民にあれこれ言わせずに)多数派の国会議決や緊急時の事後承認だけで思い通りに動かせる軍を創設したいという本音のニュアンス』があると忖度されても仕方ない。

菅義偉官房長官は『自衛隊は我が国の防衛を主たる任務としている。このような組織を軍隊と呼ぶのであれば、自衛隊も軍隊の一つということだ』と語っているが、これは論理階梯(広義の軍から狭義の自衛隊への概念定義の歴史的なタイムテーブル)を意図的に逆向させた詭弁の一つとも解釈できる。

菅義偉官房長官は、国家の防衛を主な任務とする武装した実力組織を『軍隊』と呼ぶのであればというのだが、『国家の防衛』と『侵略・先制攻撃を含めた軍事作戦の遂行』を主な任務とする武装した実力組織を『軍隊』と呼び続けてきた歴史が先にあったという常識からまず始めなければならない。

その後に太平洋戦争の敗戦と軍隊の暴走(国会を核とする文民統制の崩壊+軍・憲兵の国民への強制力)を経験した日本は、『侵略・先制攻撃を含めた軍事作戦の遂行』という役割意識や対外的に示威する戦力を放棄し、『専守防衛・災害救助・国民保護の実力組織』として『自衛隊』を新たに創設・定義したという論理階梯の段階と歴史的文脈の先後がある。

軍にまつわる歴史の常識は、現代の中国・北朝鮮・ロシア・イラン・アフガンなどを見ても分かるように、軍は『外国に対する防衛力・自衛力』としてだけではなく『政権(権力者・多数派勢力)に反対する自国民に対する強制力・排除力』としても機能してきたということである。前近代においては『人民を守る公的な軍隊』ではなく『権力者(王・皇帝・領主)の勢力圏を守る私的な軍隊』としての側面のほうが強いというか、後者の権力者とその領土・領民のための軍事力として軍は機能していた。

軍は人類の歴史の大部分において、外国に対する防衛よりも自国の治安や反対勢力の封じ込めに活用されてきたという事実を忘れるということは、そのまま戦後日本の平和主義の思想的核心の理解の浅さにつながるだけでなく、『国民の生命・安全のための軍隊』と『国家・権力層のための軍隊』の比重が後者に偏っていくということを示唆する。

安倍晋三氏が権力を保有する首相としての立場にあって『わが軍』という表現を用いることは、軍にまつわる歴史的常識の観点からも危険な軍の認識であり、改憲を訴え続ける安倍首相が、国民の生命と個人の尊厳を中核理念として権力を牽制・抑制する『立憲主義の本質』を見失っているという疑いも出てくる。

安倍政権は、強い軍隊と強力な装備、総予算に占める軍事予算の高い比率、国防増強の必要性と仮想敵の危険性の宣伝、軍に対して強い権限を持つ権力者が存在する国のほうが、国民の生命・安心・安全・財産がより万全に守られるといった主張に近い価値観を持つ。

しかし、軍事政策は政権の性格と作られた危機的状況(侵略危機の演出)においては『自国民を威圧する軍・反対勢力を封殺する軍』を生み出す恐れがあるし、武力による国防の必要性ばかりを煽ることは『仮想敵国と戦わなければならない理由を双方が探し合うマッチポンプ』に陥る恐れが高いのである。

相手が自国を侵略しようとしているから軍事強化をしなければならない→軍事強化をした相手は自国を侵略しようとしているのではないか+こちらはもっと軍事強化をしなければ危ない→軍拡の予算の負担と軍事衝突の可能性の緊張(領域侵犯などに対する世論の興奮)に耐え兼ねて武力による拙速な紛争解決へと押されやすくなるといったマッチポンプと国防上の正当性の強弁(相手が先に手を出してきたからそれを抑止しただけ)は歴史で常に繰り返されてきた。

軍事的な抑止力が効いていれば戦争にはならないともいうが、アメリカにせよ中国共産党にせよ、軍隊の権限・予算・人員が肥大して国政への影響力も強まっているために、軍人の生活や人生設計、キャリアも関わってくる『軍の組織規模・予算と人員』を大幅に減らすことは不可能に近くなり、軍産複合体が既得権益として国策を左右するようにもなる。

お金のかかる巨大組織である国軍の維持のために『仮想敵の脅威・軍事作戦の必要・軍の有益性と必要性』をずっと宣伝・強調しなければならなくなる、いったん巨大化した軍事組織は縮小したり無くすことが極めて困難であるため、『大規模な軍の必要性を納得させるための軍事的脅威・仮想敵の悪意・テロの危険』が過度に強調されたり義務教育で特定の国・民族・勢力への敵対心が植えつけられたりする恐れもある。

中国のような独裁国家でも国防委員長を兼ねる国家主席は完全に軍を掌握してすべてを思い通りにコントロールできるわけではなく、軍の権益や規模を力ずくで押さえ込もうとすれば自分の地位・生命さえも危うくなる恐れがあるし、途上国では軍隊は軍事クーデターを起こすことで選挙で選ばれて樹立した正統な政権さえも、武力による威嚇で力ずくで転覆させてしまうことも珍しくない。

自衛隊はなぜ軍ではないとされるのか、特に政治権力、自衛隊の指揮命令権を握る人物がなぜ軍というべきではないのかは、そういった軍隊と国家・国民・マッチポンプの歴史的文脈を参照した上で考えられるべき問題だと思う。

究極的には『専守防衛・国民保護の目的に違背する潜在可能性を持つ軍隊(権力・国家のために自国民の排除に動く可能性)+戦争や仮想敵の必要性をマッチポンプで作り出す軍隊の需要の自己創出(組織・予算の肥大)の傾向』からネガティブな要素を捨象して再定義した概念として日本独特の『自衛隊』があるわけで、自衛隊と軍隊の意味論的・歴史的な違いを把握したり議論したりすることも大切なことではある。