“就活の後ろ倒し”と“学校と仕事の連続性+学業と仕事の切断性”

学生の本文である『学業』に専念する時間を確保するためという名目で、就活の会社説明会が3ヶ月、採用選考が4ヶ月後ろ倒しされて、就活シーズンが春から夏にずれ込んだ。

最近は、大学機関を国際的・専門的なエリートや総合的な教養文化人を育成するための『G型大学』と実務的な職業訓練・資格取得をメインにして即戦力の人材を育成するための『L型大学』とに分離すべきという大学教員の識者の意見が出されたりもして、『大学生の学業』というものの本質や目的が見えづらくなっている。

大学進学率が上昇して大学教育がコモディティ化するにつれて、大学は『高等教育の府』から『学校階層的な就職予備校』へとその性質を変えていったが、L型大学構想は一部のエリート養成大学を除いて、かなりの部分を資格取得や実務経験を重視した専門学校に近いよりニーズのある職業訓練学校に鞍替えさせていく構想でもある。

リベラルアーツ(教養人の知的基盤を構築する自由技芸)を必修化した本来の大学教育には、『政治・経済・社会のシステムを俯瞰して批判的に分析して再設計できる知識と思考の基礎づくり』の目的があった。

そういった知識・考察力と人間性の裏付けを持った上で『高度な専門性と実務的な職業能力の段階的な修得(官吏・研究者・専門家・企業人などキャリアのベースは分離するにせよ)』が目指されるべきとされていた。

それは『社会システムの中に入るだけ(今ある組織やシステムに適応するだけ)の人』ではなく『社会システムを上から見た見取り図を手にして分析・批判・改変できる可能性を持つ人』を育てるものでもあった。

就職予備校以外の原義的な大学の学業や研究とは何なのか。理系と文系の違いがあり、現実と理想とのズレも大きいが、大学教育には歴史的に国家権力に強く干渉されない『大学自治』が認められてきたように、既存の権力・資本のシステムに完全には絡め取られない『知性と学術研究の自由が保護された領域』として期待され、『インテリジェンスとテクノロジーによる社会変革の可能性』を研鑽する場でもあった。

就活の後ろ倒しが問題視されるのは、『学業に専念する時間の大小』というよりは、『学生の企業リサーチ・自己分析と企業の人材選別にかけられる時間の少なさ+企業間の協定の有無による人材獲得競争の不公正』のほうに重点がある。

日本の雇用システムの最大の特徴は、『もっとも安定的でローリスクだと信じられてきた企業キャリア(これから先の大企業勤務の長期保証はわからない面も多い)』が、学卒後に初めに就職した企業に長く勤める“学校と仕事の連続性”に支えられてきたことである。

学校と仕事が連続的につながらない場合(就活が上手くいかない場合)には、非正規雇用や間歇的失業のリスクが有意に高まるため、イニシャル・キャリア(学卒時の最初の就職)を巡って就活の苛烈な競争や選別が起こるわけだが、このことは逆説的に大学教育のナンセンス化現象としての『学業と仕事の切断性(大学で学び研究したことが仕事の実務に全く関係ない)』を生み出しやすくしているとも言える。

学校卒業時に内定がなくすぐに就職しない、フリーターや無職になって暫くしてから好きな時期に就職することは、日本の雇用システムや企業内キャリアの上では相当なビハインドになるか、もしくは有名・大手の人気のある企業には後からでは相応の実力実績があっても人事制度面から入れないことも多い。

就活がここまで重視される大きなライフイベントになっているのは、『新卒一括採用の慣習(中途採用の少なさ)+大手企業の長期雇用キャリアの生涯賃金における有利さ+労働市場の流動性の小ささ(要資格の専門職以外における大企業からの転職が有利な労働市場の権威性)』が原因であり、端的には就活の一回勝負がその後の職業生活や賃金水準にかなり大きな影響(職種・専門性によっては不可逆な影響)を及ぼすからである。

日本の流動性の低い雇用システムは『企業規模と給与水準の格差・総合職‐専門職‐一般職・正規‐非正規』といった擬似的身分制になぞらえられることもあるが、これは権威性・保守性の強い大手であるほど『学校システム(年次主義・在籍保証)の擬制としての企業』に近い姿を呈していて、いったん入社すればよほどの不祥事・犯罪を犯さない限りは(会社の経営が傾かない限りは)窓際・閑職・減給に追いやられたとしても解雇されることまではない。

長期雇用の保証度・安定度が以前よりは低下したとはいえ、それでも『新卒一括採用からのイニシャル・キャリア』がその後の企業人としてのキャリアや自分のやりたい仕事の続けやすさ(能力・技術・ノウハウの積み上げ)に与える影響は大きく、『学校と仕事(会社)の連続性』と『学業と仕事(会社)の切断性』というのは職業予備校的な大学の実質的な特徴として残り続けるだろう。

その先にあるのは、大学全入時代や学歴インフレなどの言葉に象徴される『高等教育の府としての大学機能の変質・経済化』であり、学業と仕事(会社)が切断されているのであれば教養的・文化的な人間(現状批判的・システム改変的な知性・精神・視野を持つ人間)を作り上げるための本来の大学教育はもう役目を終えたということで、実際に職場で即戦力として働くことに目的を絞った職業教育をメインにすれば良いというL型大学構想のようなものに収斂していく。

産官学連携などのように既に大学も『市場原理主義』や『政治経済の世俗的利害』に深く取り込まれてしまっているといえばそれまでであるが、実務的な職業能力や実践的な社会的処世と関わりの薄い『古典・哲学・科学・文学・技術などによる既存システムを俯瞰・分析できる教養的文化的な人間性の構築』を大学が放棄するとすれば、より即物的かつ市場競争的な弱肉強食(利益の増減の結果論)のロジックだけを信奉する人が増えるという知的活動・システム再設計の側面からは淋しい状況を招くのかもしれない。

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