『徴兵制』の是非の根本的な問題意識はどこにあるのか?:『徴兵は不要』と『徴兵は禁止』の違い

「徴兵制」掲げたパンフが波紋=保守系「内容に問題多い」―民主

『徴兵制』は共同体と権力について本質的な価値判断を含んでいる。徴兵制(素人兵)は軍隊・兵器の高度化で不要になったの主張と徴兵制は人権侵害・違憲で許されないの主張は発想の力点が異なる。

国家の起源は『共同防衛・共同侵略の氏族集団(都市国家や村落共同体)』であり、人権も自由も立憲主義もへったくれもない古代?中世においては『暴力による土地・資源・労働力の争奪戦』が不可避な現実としてあり、集団が戦争をする権限と君主が構成員に命令する強制力を持つ事は集団の生存保持と存在意義に直結していた。

近代国家はナショナリズムと国民教育で士気を高めた『国民軍』を徴兵し、かつてない規模の死傷者を出す激しい戦争を展開した。近代国家の歴史は、国民に自発的な血と汗の献身をさせながら、領土・市場を拡大しようとする『戦争機械』として幕を開け、無力な個人は総力戦・大量虐殺・特攻・原爆などの悲劇に喘がされた。

第二次世界大戦では多くの国々において『国家共同体』は『個人の生命』に優越する絶対的な権威・価値となり、国民個人の生きる意義は『国家への貢献』だと教育された。前近代の軍事は貴族階級の名誉ある義務だが、近代の徴兵も戦士階級が一般化した名誉ある国民の義務として認識されたが、近代戦は武勇の徳を無意味化した。

自分の命を投げ出してでも守り抜くという『愛国心』と『家族愛』のファンタジーが相互作用して、敵対国の人々を『対話不能な残酷な悪鬼・野蛮人(やらなければやられることになる不倶戴天の敵)』として刷り込む事で、国・家族を守る為の戦争をすることが正しい、それ以外に選択肢はないという世界認識が前提とされた。

国家・権力者の徴兵権力がなければ(個人単位で戦争参加を拒否できれば)戦争も紛争も起こりにくいが、『共同防衛の為の徴兵権力』は近代国家以前からある原始的・本能的なものなので『仮想敵との殺し合いを前提とする世界観(戦争を避ける事ができないとする運命観)』を持つ人がいる限り徴兵権力は内部から是認され得る。

日本国憲法は『個人の尊厳原理』に立脚しているので、原則論としては憲法9条・18条などを持ち出す以前に、個人の生命・自由を一方的に侵害し得る『戦争権・徴兵権』に対して否定的と考えられる。国家権力でも個人の生命・人生を、正当な刑罰以外の理由では侵害できないとする考え方は豊かで自由な国ほど是認されやすい。

残念ながら、個人の生き方・考え方が十分尊重される程(国家からの過剰な強制・干渉を断れる程)に豊かで自由な国は未だ少数である。『国家や権力者はいざとなれば戦争や徴兵を無理やりできる権限を持つ・集団間の問題解決には暴力や支配が必要・国や皆の為に死ぬ事は最大の名誉』等の教育・認識で戦闘集団性は保持される。

国家権力は国益や支配階層のために究極的には何でもやることができる、個人は集団暴力を独占する国家には逆らえないとする反立憲主義は、原則論として『戦争・徴兵(権力に管理される個人)』を否定できない。戦争をしたい個人は少ないのに、世界で戦争がなくならない理由の一つは『権力と教育と同調・全体最適化』である。

人権の不可侵性や専守防衛等を、理性的・啓蒙的に承認・尊重するというのは、『暴力による優位性や強制性の自己否定の誘因』であるから、その範疇が広くなれば武装や軍事は縮小する。暴力や脅しで強制する解決法が間違いだと分かっていながらやめられない背景には、貧困・怨恨・体制維持(支配層の権益確保)などがある。

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