“長寿化・高学歴化・高技術化(電子化)”する先進国ではなぜ少子化が進むのか?

人類社会の歴史は乳幼児死亡率の低下と産業社会・知識社会の豊かさの増大によって『多産多死→多産少死→少産少死』へと変化してきた。そのマクロな構造変化と意識変容の先端に、現代の日本や欧米諸国、韓国などが直面する“少子高齢化”の問題がある。

■「子どもいらない」独身の若者、増える傾向 厚労省調査

最も端的な構造変化は、生活者以外の目線と統計的な予測の知識を殆ど持たない『プロレタリア階級(非知の労働者階級)』の再生産システムの消滅である。現代は学歴や知的好奇心を問わず、『現在の政治・経済・社会情勢のちょっとした分析・未来予測』程度は、大半の人が“悲観楽観・情報精度の差”はあっても予測するようになり、先がどうなるかを功利主義的に読んでから行動を選択するようになった。

社会の高学歴化とプロダクト(製品)の高技術化、自意識の向上によって、『毎日ご飯と寝床が得られて子どもが元気に大きくなるだけでありがたい(子供の学歴・職業・収入云々は真面目に黙々と働きさえすればどうでもいいしどうにかなる)』というだけの要求水準で、『過酷・理不尽な長時間の肉体労働や階層社会の上下関係』に耐えるだけの地道な人生設計を受け容れられる労働者階層が大きく減ってしまった。

フルタイム(長時間労働)の勤勉さに報いるという側面のあった社会保障制度の持続性が疑われ始めたこと、激化する競争環境への適応として、企業(経営者)が『労働者の長期的な人生設計・子育て』等に配慮しないブラック化・人件費の削減・人材の使い捨て化に踏み切り始めたことも影響する。

公的年金支給開始年齢の引き上げと支給額の引き下げも予測されることから、長期にわたる不本意・低賃金な労働形態への帰属と忠誠が、(実績につなぐ知識や能力が不足していれば勤勉・正直なだけでは報われないことも多いという)意識の上でより困難になってきている。

公的年金の給付水準がこのままでは維持できないということから、子供を多く産む少子化解消が、『社会保障の財源不足・介護や単純労働のマンパワー不足』に対する処方箋のように語られることもある。

だが、こういった見方は現代の企業経営・労働・納税に理不尽さや不平不満を抱えている層にとっては、更に『生まれてくる人間=システムに使われる労働力・財源』というネガティブな認識を植えつけるだけである。子供を未来の福祉国家を支える労働力や納税者として扱おうとする『負担先送りの賦課方式』は、返って子供を産まなくなってしまう悪循環(格差・搾取・貧困の再生産の予感からの出産回避)を生みかねない。

また現時点における日本人でさえなかなか好んで就業しようとしない職種・分野・労働条件に、未来の子供たちが高齢者・日本経済・社会制度のために自分を犠牲にして、敢えて過酷で低賃金な仕事を選び、遣り甲斐を感じにくい仕事に就いてくれる保証もない。

何より平均賃金がバブル崩壊以降は下落傾向を示し続け、正社員と非正規雇用の格差が開いて、正社員の雇用保障も社会保障水準も悪化しているので、普通に育ってくれればそれなりのサラリーパーソンになって稼いで納税してくれるはずという見通しは相当に楽観的なものではある。

日本の先を進むEU諸国の失業率の高さを見ても、自動化・機械化・コンピューター化・人工知能化は『平均的な人材でもそれなりに稼げる雇用』を減らすことはあっても増やすことはない。長期的な未来社会では人工知能の生産・消費・環境負荷の管理システムや大半がロボット化された労働現場などによって、生身の人間の労働需要が一部のアドミニストレーター以外には殆どなくなり、失業・所得が問題にならなくなる可能性もあるが、『ロボット・自動化プラント・特許の私的所有権』がある限り、その著しく増大した生産の果実がすべての人々に平等に配分される保証もまたないのである。

イノベーションによる機械化・自動化・人工知能活用が着実に進展する中で、既存の職業のかなりの部分が消滅していくという予測は、平均程度の能力・努力・技術では今の中流階層の生活を再生産できなくなるのではないかとの不安をもたらし、親に過剰なまでの教育投資(そのほとんどは実際的な収入に結びつくものでもない)を煽るところがある。

逆説的に、競争社会や情報化社会の過度な進歩発展は、動物としての人間の生殖・繁栄の本能をスポイルしてしまうとも言えるのだが、それは一定以上の裕福さや権限、名声などを持っている成功者であっても、『自分と同じような人生を生きることが果たして幸せか否かという自己懐疑』をもたらし得る。

学力と学歴・スポーツ・人間関係・異性関係・就職と雇用・社会保障と老後設計などの競争圧力をはねのけて勝ち続けたとしても、そこで得られるものは『人並み以上にハードな労働環境・責任負担・目標設定・家庭運営(子の教育の責務)』だけということも少なくない。

社会経済的な成功者であっても、企業社会やワーカホリック・スタイルへの適応度が低いと、幸福実感が乏しかったり途中で挫折・逸脱したりするということにも成りかねないわけだが、『経済資源・時間資源・社会的評価・対人的評価の最適なバランス』というのは殆ど誰も実現できない難易度の高いものになっている。

すべてをほどほどに、力を使い果たさない程度に頑張って、仕事も家庭もプライベートも知的生活も運動・娯楽も大きく偏らずに万遍なく楽しむライフスタイルを実現することは、人間の有限性からして不可能だが、競争に参加しすぎても脱落しすぎても健康か経済か人間関係かのいずれかが困窮しやすい。

『未来で生まれる人気の職業・高所得な雇用・安定性のある仕事』というのは、高度な教育歴や技術・知識を要する仕事か(子供の教育投資にお金・適性・時間が必要となる仕事)、自分でビジネスモデルや新規商品を開発するアントレプレナーな仕事か、容貌・身体能力・スタイル・話術のような個性としてある才覚を活用する芸能・スポーツ・プレゼンターなどの仕事かに収斂してくる。

給料・待遇を問わなければ色々な仕事はあっても、『現在より高度化した情報化・娯楽化・仮想化社会』では、自意識の肥大と時間資源の不足感によって不人気な仕事により人材が集まりにくくなる。

仕事・結婚・育児をしていなければ何もやることがない(あるいは収入が多くても余暇の多い生活状態を周囲が許さずに型・身分に嵌める)というのが『人類の歴史の大部分』を占めていたが、その『やるべきことが限定的かつ義務的だった歴史的・社会的条件の崩れ(子と文化の再生産を慣習的に繰り返す人類に概ね共通していたライフサイクルの個別化・自由化)』が未婚化・少子化・無業者(非社会化)などの現象面の背景にはある。

2000年代以降のウェブ社会、スマホの登場やアマチュアが作る無料コンテンツの爆発的増大(作り手・発信者に回る素人の増加)、ワンクリック(プログラム)で莫大なカネが投機的な数字として動き続ける高速取引の金融経済などは、実在する人間(私)の意識や興味を個人が引き受けられないほどに拡張していった。

『現代の情報化・娯楽化・数値化』は『理屈・原則で考える個人が選びきれない可能的な選択肢とコンテンツの多さ』をもたらすことになったが、それは『人間としてしなければならないこと(しなければ差別・排除されること)という旧来社会の秩序維持コード』を書き換えて、リアルの欲求の複層性・個別性(わたしはわたし・あなたはあなたの別の世界を生きても良いという島宇宙的な不干渉コード)を生み出したのである。

こういった技術革新による歴史的・意識的な社会変動は、『人類の歴史の例外的な個人内部の興味関心の増大』と『顔見知り同士で人生の流れを相互監視する形態で保たれるコミュニティ性(村社会的な同調・連帯)の衰退』をもたらした。

今でも他人の困窮・葛藤・失業(無業)などに対して、『自分がしっかり学んでいなかったからキャリアを重ねていなかったから悪いという自己責任論』が流布されているが、こういった自分は自分、他人は他人という他者切捨て型の自己責任論によって、『子供の教育・職業・社会性・意識を巡る親の育て方』はよりプレッシャーが強まりやすい。

一生懸命に育てても思い通りにいかないのが子育てというものだが、その思い通りに行かない経路が過去よりも複雑となり、学校教育や企業適応、結婚・家庭などの側面で『親と子の世代間の価値観・生き方の理解しあえないリスク』も高くなっている。

戦後間もなくまでは、身分制社会・財閥企業・滅私奉公の精神・イエ制度の影響もあり、『カエルの子はカエル』ということで、労働者・農民の階級的(役割的)な再生産は半ば本能と慣習に裏付けられた運命として受け止められやすかった。学歴社会における競争原理も昭和後期までは『階層流動性の上昇装置』として、家柄・財産のない地方の秀才が国立大に進学して官僚・医師・専門家になるような進路に大きな期待が持たれていて、勉強面の競争は公平性・逆転可能性のある競争として受け取られやすかった。

近年は中流階層の緩やかな減少によって低所得層の子弟の学歴による階層流動化(子供世代での職業・経済力のシャッフル)が起こりにくくなり、政財界や芸能界などに見られるように経済的・社会的な側面での『世襲化』が目に付きやすくなった。

統計的には厳密には、日本は昔からそういった『経済社会の擬制的身分(世代間の固定的階層性)』が残っている社会だったという見方もあるが、持続的な経済成長と勤勉性の評価によって『明日は今日よりも良くなっていく感覚・小難しいことを理屈で考えずに日々を生きる人が大半な時代背景』が、歴史的な格差を気にしなくても良い程度に隠蔽していた。

理不尽な労働環境や不快な人間関係を生涯の大部分にわたって受け容れるための『理屈・合理的思考の上での納得のレベル』が格段に上がってしまった影響も大きく、結婚も出産もある意味では“思い切り・勢い(相手との共同幻想に裏打ちされた勢い)”がないとなかなかできないところがある。

生物学的な出産可能年齢の制限はあるが、先進国では個人の平均寿命が延びたことによって『終わらない青年期的な心性・感性』が強まるようになり、個人差のある生き方の選択と親になりたい(子を持つのが自然)という人間観などがないと、自らの世代が衰退・終焉に向かう予兆をはらんだ『次世代育成の成熟』が難しくなっている。

なぜ子供を本能・勢いで産みづらくなったのかの心理的な理由は大きく分ければ、『人間が人生を生きなければならない競争環境が自然から離れすぎてしまったこと(政治的・制度的なシステムに管理され尽くした生の予定調和率が高まったこと)』、『子供を労働力・財源として自分や社会のために活用しても良いという上下関係のある孝行・忠誠の価値観が薄れたこと(人権意識の高まり等で自分がしたくないことを他人にさせてはならないという自他の立場を置き換えるフラット化の想像力が強まったこと)』、『安心して子供を産み育てられる保証が欲しいという人生に対する要求水準が過去の時代と比較して相当に高まったこと(経済・技術・権利意識の進歩や高まりによって人生を楽しみたいとか他人に傷つけられたくないとかいう要求水準が非常に高くなったが、世界のポテンシャルとしてある理想に現実が殆ど追いついては来ないということ)』を考えることができるだろう。

子供を多く産みたいと思う解決策が、政治や経済が良くなったらというのでは先進国では文明水準・教育水準が崩壊に近づくまで子供は増えないのかもしれない、むしろ“Get back to natural sense, Act on instinct. Don’t think too seriously, Feel it.”が子供を産もうとする人の心理・行動を後押しすると思うがそういった心理は『平和・爛熟の社会(いったん繁栄を極めてその残光が残る社会)』では生まれにくいものである……生まれながらに一定の子供の安定的な人生設計と理不尽・不幸がない制度的保証を期待するという現代人の心理のあり方もまた非自然的かつ被管理的なもの(生物に備わる自己複製の本能とヒトの伝統社会にあった子が親世代を扶養する孝行の自明を葛藤的に阻害する要因)ではあるのだろう。

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