武藤貴也衆院議員の日本国憲法否定の発言と“思い通りにならなくなった先進国の庶民”への権力の憂鬱

武藤貴也衆院議員(36)は私と近しい世代の政治家だが、『歴史を知らず憲法を学ばず国民を道具と見なす復古的な権威主義者』が政治権力の一翼を担っていることの危険性を知らしめる発言である。

国民が国家のために生命を捧げる価値を教育し、国民を『国体の全体システムの部品』と見なして戦争・労働で使役しながら国家権益を拡張する考え方は、『統制主義・身分意識・生命軽視の戦前回帰』そのものである。

近代憲法の原則を否定する武藤貴也氏の発言については、『政府・権力者の思い通りにならなくなった国民』に対する苛立ちや不満が顔を覗かせており、相対的に低下した政府・権力者の『対国民の強制的な使役力』を回復して、自らの権力欲を満たしたいという傲慢さの現れとも感じる。

『内閣総理大臣である私が自衛隊の最高指揮官である・自衛隊は国防軍(日本軍)へと名称変更すべき』と宣言した安倍晋三首相の軍事偏重志向とも重なるが、政治権力者が軍隊への名目上・実質上の影響力強化を望む時は、歴史的に見ても『対国民の強制的な使役力(全体利益を掲げる自由・権利の制限)』が背後の目的としてあることが多い。

中国・北朝鮮の最高権力者が『国防委員長』の肩書きを名乗りたがること、『思想的な教育改革』に注力することは偶然の一致ではなく、『物理的な威圧・精神的な洗脳の効果』によって、『国家・政権の命令に従わない人民の相互監視体制+自ら進んで全体国家のために犠牲になってくれる(反対者を差別・弾圧してくれる)メンタリティ』を自律的に構成することを目指している。

ナチスドイツのヒトラーユーゲント、大日本帝国の軍国主義青年・開戦派の青年将校、中国の紅衛兵・マオイズム、北朝鮮の主体思想主義者・金日成信奉者、カンボジアのクメール・ルージュ、フランス革命のジャコバン派(平等主義の極左)などが典型的だが、『若者の純粋な社会貢献欲求,外敵や不正を排除しようとする正義感』が政治権力者の望む方向へと教育や社会環境を用いて誘導されてたことで歴史の悲劇が繰り返されてきた。

純粋な青少年たちが『政治・党派・親から教えられた集団主義の正しさ+個人主義の悪さ』を盲目的に信奉したために、信じられない残虐行為(内外の裏切り者探し・全体に従わない者の粛清)へと駆り立てられた歴史的事例は無数にある。

自分たちが絶対的に正しく、自分たちの達成しようとしている目的が『個人の生命』などより圧倒的な価値があると信じていればこそ、『目の前にいる他者(特に自分たちの勢力・価値に従わない他者)』を容赦なく罵倒し殴りつけ、差別し排除して、銃殺・処刑することができた(むしろ世の中を良くするための必要悪としての暴力であり涙を呑んででも反乱分子・敵を殺さなければならないと思えた)のである。

こういった集団全体の目的や調和を、個々人の生命・人生よりも絶対的に重要だと考える価値観は、『戦争・差別・いじめ・体罰』などにおける暴力肯定の正当化のロジックとして用いられてもきたが、現代の若者の多くは良くも悪くも国家・社会の目的とは別の位相にある『プライベートな自分の人生・世界観・人間関係・趣味嗜好』を守ろうとする個人主義的な動機づけが強まっており、近代初期のような思想的・攻撃的な純粋性(仮想敵がいるから自分たちが苦しめられるという物語)に呑み込まれづらくなっている。

正に、武藤氏のいう自分や仲間の生命が大事とか戦争以外の問題解決策を話し合いたいとかいう『利己的な個人主義・理性主義』が過去の人類の国家・共同体ではほとんど認められないという法律的・経済的・思想的・本能的な諸制約があったためである。

これらの『戦争やむなし・仮想敵は我々と同じ心を持つ人間ではない』と人々に思い込ませる諸制約と全体主義的な価値観によって、人類は戦争を繰り返し続けざるを得ない運命に投げ込まれてきたという側面を学ばなければならない。

日本国憲法の先進性は『個人の尊厳原理に立脚する国民主権』によって、『理不尽かつ非人道的な集団的暴力』を排除せしめるという近代啓蒙主義の精華にある。

そのために、権力といえども個人の基本的人権は原則として侵害・剥奪できない(自由・生命までを差し出せと命令することはできない)とする『国家権力の命令権の限界』が截然として引かれている。

この基本的人権と接合した個人の尊厳原理が世界で忠実に履行される時には、自然にすべての国家・集団は戦争放棄に至らざるを得ないという論理になるが、こういった立憲主義・理性主義は『理性を放棄せずに言葉が通じる人たち・暴力や立場を自分たちの利益のために使わない人たち』の間でしか共有できない弱みが当然ある。

『暴力による問題解決・仮想敵の脅威と野蛮(対話不能性)・従わない個人を抑圧する権力』というのは、『思い通りにならなければ暴れる(理屈が通らなければ暴力で訴えようとする・自分たちの正義や利益を暴力で実現しようとする)』という、動物的なある意味で幼稚・単純な脳の領域を持つ人類に課せられ続けている『理性と本能・言葉と暴力との終わりなき葛藤の課題』でもある。

言葉や理屈の上での正当性に従う人ばかりが増えれば戦争を遂行することが原理的にできなくなるというのが日本国憲法の理想主義なのだろう。

それに対するリアリズムとして、『そこまですべての人間を理性的に教育・啓蒙し尽くすことなど絶対にできない=人間は追い詰められたり思い通りにならなくなったら言葉・理性を捨てて暴れるものなのだ(戦争に限らず犯罪も含めてだが生活状況が厳しくなれば貧すれば鈍するで暴力肯定の価値の魅惑が高まる)』という価値観があることは、生徒たちが将来の人生でつらいことがあっても暴力・犯罪・いじめ(ハラスメント)に逸脱せずに踏ん張れるようにとの思いを込めて、学校教育でも触れておくべき『人間の心理・行動の普遍的原理の二軸』なのである。

武藤貴也氏は『国民主権・基本的人権の尊重・平和主義』の日本国憲法の三大原則が日本人の精神性を破壊して、『戦後の日本教育』が国家を退廃させる利己的個人主義を蔓延させたという持論を展開しているが、これには自民党の権威主義・復古主義に共通する『国家権力の思い通りに動かせる国民への教育・日本の東アジアにおける軍事プレゼンスの強化・国家の中の細胞として役割を果たす有機的な全体主義』という悲願も表出している感じがある。

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