群馬県で男子中学生が自殺:学校・会社に行くべきという常識はあるが臨機応変な考え方と支援が必要

人生を所与の義務や関係の束縛と捉えれば“一切皆苦”で絶望しやすい。視野狭窄や無理な過剰適応も自殺リスク。学校・会社は『自己と他者のポジティブな相互作用の場』として選択し活用すべき環境以上のものではない。

男子中学生が自殺か=電車にはねられ―群馬

“学校(会社)に行かなければいけないという社会規範”は、精神疾患や希死念慮、絶望感に陥らない限りは常識的なものとして認識されるが、“生きるか死ぬかの瀬戸際の苦悩・落ち込み”がある時には『今の状態の学校(会社)に死ぬ思いをしてまで行かなくても良いという選択』もあると教えておくことが必要なのか。

日本の公的な学校教育は、指示遵守・集団行動・工場労働への適応を鋳型とした典型的な規律訓練型としての特徴を色濃く残している。力(立場)の強い生徒もいれば弱い生徒もいるという『集団内の上下関係(正論が通らない理不尽な関係性)への適応』も社会適応の一環として組み込まれていた節もある。

少し前の日本では、いじめ・体罰さえも『理不尽な現実社会の縮図』として容認されていたが、それは公的な学校教育のクラス制度が『異質排除と同調圧力が働くムラ社会(同世代の共同体)の擬制』として見なされていたからでもある。外部なき共同体では『法治的な形式秩序』より『関係的(人治的)な実力秩序』が優勢となる。

記事にある自殺の原因が、いじめなのか将来悲観(学業・進路などの悩み)なのか家庭問題、厭世・虚無の思想なのかは分からないが『諸行無常・一切皆苦という一面の真理』に対して抗うのが人間の存在形式なのである。『自分なりの生の意味・価値・快楽』等は与えられるものでなく真理性に抗って創造・解釈し続けるものだ。

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