若者の自殺と誰にも相談しない心理:相談に乗れば他者を救済できるか?共感・援助の難しさ

自殺を忌避・断罪すべき絶対悪と見なして自殺者を責めるような意見もあれば、自殺を個人の自己決定権の一部や生命力の希薄さによる運命と見なして自殺者を容認するような意見もある。

■高1女子が転落死=飛び降り自殺か―新潟

大半の人は差し迫った『自殺願望(消えてしまいたい衝動)』に今の時点で囚われているわけではないので、実際に自殺企図をして死んでしまう人の本当の心理や衝動、苦悩について十分に共感することができない。

共感も受容もできないから、その自殺衝動を抑制する方向に誘導する話し合いを粘り強くすることは極めて難しい。自分の人生や人間関係で忙しい大半の人は、第三者の自殺願望の心理を短時間であれば聴くかもしれないが、毎日毎日延々と嫌なことを聴き続けるストレスフルな作業からは逃げ出してしまうだろう。

自殺が起こった後で人々は『相談してくれていたら・誰かを頼ってくれていたら』とはいうが、実際には差し迫った自殺願望や終わりのない希死念慮を抱えた人の話し相手になるということは生半可なことではなく、非常にストレスフルでうざったくて面倒な作業である。

金銭的対価を貰う精神医学やメンタルヘルスの専門家でさえ、筋金入りの自殺志願者や境界性パーソナリティーのしがみつきからは逃げ出してしまうか、感情移入を控えた機械的な対応(投薬)だけをして境界線を引いて巻き込まれないように自衛することは少なくないくらいなのである。

大半は途中から我慢できなくなって聴いている側の人間のほうが『甘ったれるな・誰だってつらくても頑張ってるんだ・いつまで意味のないことを考え続けているんだ・現実を見てやるべきことをやれ・人を暗くさせるような話ばかりするな(私の人生までつまらなくなる)・死にたいなら私に宣言せずにやってくれ』という叱責や説教、諦めになっていくのが関の山である。

あなたが死んでしまうくらいなら、私は何日間でも、何ヶ月間、何年間でもあなたが訴える『人生がつらくて死にたい・生きることに意味がなくて苦痛なだけだ・自分には価値がなくて他人にも社会にも興味がない・誰かが憎くて憎くて仕方ない・生きていくのが面倒だから何もしたくない・学校も会社もずっと行きたくない(ありのままの無為な私でずっといいよと言って欲しい)』といった内容のネガティブな話題を粘り強く聞いてあげると言える人、更に実践できる人がどれだけいるだろうか。

どんなに暗くて終わりのない世界・話題にでも付いていって、説教・批判はせずに深く共感して最大限の援助をしてくれる人(その人の生命力・前向きな認知が回復してくるまで徹底的に見捨てずに付き合ってくれる人)がいれば、確かに自殺はしないかもしれないがそんなことは実の親だってそう簡単にできることではない。

家族や親族だって、自殺願望や虚無主義、トラウマにとらわれて何年間も非社会的・非生産的な生活や訴えが続くようであれば、共感・援助よりも叱責・批判に変わっていくほうが多いだろう。そんなことは自殺志願者だって分かっているから、親にもきょうだいにも友人にも相談しても仕方ない問題であると考えるから、初めから相談しないまま自殺してしまうことにもなる。

自殺してニュースになった後なら、大勢の知らない人がさまざまな価値感や角度から肯定・否定のメッセージを寄せてくれるが、学校というか現実社会では『死のうと思っている陰鬱な感じの人・ネガティブな雰囲気や悲観的な感じを漂わせている人』に敢えて近寄っていって共感したり助言したり支えてくれたりする人はそんなに多いものではない。

どちらかといえば、人はポジティブ・楽観的で一緒にいて気持ちを明るくしてくれるような人、接していてモチベーションやセンスが高められる魅力的な人のほうに引き寄せられていく傾向が強く、人は落ち込めば落ち込むほど、自殺したいと思えば思うほどに、自分を支えてくれていた人も逆に遠ざかっていきやすい。だから精神的な苦痛や絶望は、余計にそれらを深める孤独をつれてやってくるというネガティブ・フィードバックの怖さがあるのである。

ましてや無関係な第三者が、筋金入りの自殺志願者や虚無主義者と向き合えば、自分のほうが精神がやられて抑うつ的になるか、死にたいとか人生に意味がないとかを連呼する相手に対して『もっとしっかりしろ・現実と向き合え・誰だって人生は大変なもの』という怒りのほうが勝ってくるだろう。

自殺しようとしている人本人の心情に寄り添うことの難しさは、『その人ではない別の人の問題への置き換え』が多くなることにも現れている。

目の前の人が苦しんで自殺したい心情を訴えていても、『その人自身の問題・悩み・思考』を共感しながら掘り下げて聴くのではなく、適当なところで切り上げて、『生きたくても生きられない人の話・自分も過去に自殺願望に囚われたが克服したという話・社会や人生の現実的な一般論(生きていれば良いことも悪いこともある)』という方向に逸れていって、その人が本当に話したいこと(聞き手にとっては聞いて気分が沈んだりイライラしたりするようなこと)については余り積極的に関わっていこうとはしないケースが多いのである。

いずれにしても、親兄弟や恋人・親友でもない限りは、知らない誰かが自殺したとしても(殺されたとしても)その瞬間の悲しみ・残念さはあっても、別に自分が悲しみでモノが食えなくなったり眠れなくなったり、明日の遊びの予定をキャンセルしたりするわけでもなく、飽くまで『他人事』といえば他人事としてその出来事(ニュース)は過ぎていくことになる。

その意味では、自殺願望を持つ人もそれを見ている関係者・第三者も、『自分自身の人生』に対する責任・覚悟以上のものを持つことはなかなかできないものである。

『一定程度の共感・援助・寄り添い・励まし』はできても、『その人に取って代わって(自分が相手の苦悩・面倒を丸ごと引き受けて)救済してあげること』までは親であってもまずできない(特に思春期以降まで成長した子供の場合は)と考えたほうが良く、それを私ならできるという人は『真の博愛主義者(自分を捨てる利他主義者)』か『何も深く考えていない熱血漢(相手も自分と同じと思い込める精神主義者)』かだろう。

人生は楽観的にも悲観的にもどちらの側からも解釈可能なものであるが、まずは生きたい・死にたくない・とにかく生きてみるかという『最低限度の生命力』が基盤になければならず、周囲にいる関係者ができるとしたらその死なないで生きられるだけの基盤を形成するための環境調整と心理的ケアを提供することだろう。

人生は確かにただ生きていさえすれば良いことが必ずある(何も頑張ったり耐えたりしなくても良いことにありつける)というほどには甘いものではないが、生きるということに義務があるとすれば、『自分や好きな他者を幸福にする・好きなことを増やす・やりたいことを増やす・自分に生きたいと思わせる』くらいだろう。

それは、自分がやらなければ誰もやってくれない仕事であり、この仕事を怠り続ければ、自分で死なないとしても『一切皆苦の運命・虚無主義の虚しさ』を背負い続けることにはなる。

いじめ・ハラスメントなどの原因となる嫌な人間関係や環境からは逃避することはできるが、環境や相手を変えたとしても『自分にしかできない自分を幸福にする仕事』からはどうやっても逃げることができない、その仕事から逃げるということは人生がすべて苦しくて無意味という絶望の暗闇につながりやすいからである。

人生や社会(他者)はつらくて虚しくて大変(面倒)だというのも一面の真理であるが、その真理に延々と膠着していても一切皆苦や虚無主義の悪循環に陥るだけであり、その真理への無意識的な抗いによって『自分なりの人生の意味・価値』を創造したり改変したり発見したりできるということに、悩みこみやすい型の人間の救済のとっかかりがあるのだろう。

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