映画『ギャング・オブ・ニューヨーク(2002年)』の感想とアメリカのWASP・移民の歴史

総合評価 92点/100点

レオナルド・ディカプリオは若い頃の『タイタニック』があまりに売れすぎたために、そこでイメージが固まってしまっている人も多いのだが、L.ディカプリオの映画は2002年のこの『ギャング・オブ・ニューヨーク』を画期として、光と影を合わせたアメリカの歴史を題材にとった骨太で重厚な作品が増えてくる。Huluで公開されていた『ギャング・オブ・ニューヨーク』を10数年ぶりに見てみた。

アフリカのシエラレオネ内戦を舞台にして、ダイヤモンド採掘の奴隷労働と欧米人ブローカーが暗躍する紛争ダイヤモンドの利権を題材にした2006年の『ブラッド・ダイヤモンド』も面白い映画だが、2002年の『ギャング・オブ・ニューヨーク』は南北戦争前夜のアメリカのアイルランド移民問題を題材にした映画で、ギャングのむきだしの暴力がニューヨークの一角を仕切っていたアメリカ建国史の重要な一場面(銃の武装権を支持する保守層のスピリットの淵源)を切り取っている。

アメリカの近代化のプロセスは、移民や信仰の共同体(コミューン)をはじめとする『地名変遷の歴史』にも現れているが、『ギャング・オブ・ニューヨーク』ではディカプリオ演じる主人公の名前が“アムステルダム”というのが象徴的である。

アムステルダムはニューヨークの旧名ニューアムステルダムを彷彿とさせるものであり、ビル・ザ・ブッチャー率いるギャングの『ネイティブズ』の主張する『WASP支配・プロテスタント信仰の自明性』にニューヨークの歴史的起源(非WASPのオランダ人による支配の時期)を持ち出して対抗している。

ニューヨークの都市としての歴史の始まりはオランダ人移民の入植にあり、17世紀のニューヨークのマンハッタン島は『ニューネーデルランド』と呼ばれ、1663年には『ニューアムステルダム』とオランダの首都にちなんだ名称に変更された。17世紀後半、オランダ人はネイティブ・アメリカンからわずか24ドルでマンハッタン(19世紀以降のアメリカ最大の都市)を購入したのである。

そもそも論でいえば、ギャングの『ネイティブズ』は、WASPこそ『アメリカ先住民(アメリカを統治する正統な民族)』なのだと自称して『新たに入ってくる移民(特に本国の飢饉で急速に移民を増やすアイルランド系)』を差別・排撃しているのだが、本当のアメリカ先住民はインディアンであり、後から原住民を追って支配権を固めたWASPはセカンダリーな荒くれ者のネイティブズに過ぎない。

その後、ニューアムステルダムと呼ばれたマンハッタン島の支配者はオランダ人からイギリス人へと移っていく。1694年、英国はニューアムステルダムを武力で奪い取り、イギリス国王の兄弟の侯爵であるヨーク公の名前を冠して『ニューヨーク』へと名称変更した。

新たな土地を支配して新たな自分たちの民族・信仰の共同体を建設するという16~18世紀のアメリカの歴史は、正に武装した白人(本国で食えない白人)がネイティブ・アメリカンを放逐しながら版図を広げた『フロンティア(新天地)の開拓史』だった。

この時代からニューヨークの中心勢力は“WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)”と呼ばれる英国系の白人となり、WASPはニューヨークの支配的民族として非WASPの移民・黒人を“二級市民”として差別・排斥するようになるのである。

市民の暴動・蜂起が発生すれば度々黒人の大量虐殺が行われ、特に南北戦争の時期には『黒人奴隷解放を宣言するエイブラハム・リンカーン大統領(連邦政府)への見せしめ』としてWASPのギャングに黒人が虐殺される事件が頻発した。そして、ヴァロン神父とその子アムステルダムはアイルランド系移民・カトリックであり、アイリッシュは『ホワイト・ニガー(白い黒人)』と呼ばれてビル・ザ・ブッチャー率いるネイティブズの差別・抑圧を受けている。

広大な土地が広がる多民族国家(移民国家)のアメリカは、現在でも地方自治(州政府・地域共同体の影響力)が強い国であり、『南北戦争(1861~1865年)』によって連邦政府の強制力が高まるまでは、この映画に出てくるようなギャング(私兵を持つ町の顔効き)が都市で縄張りを持って政治家と癒着し、暴力による自治と秩序を形成していた。

ギャングはシェリフ(保安官)と並んで、『力(恐怖)の象徴』であると同時に『自由(反権力)の象徴』であるというアンビバレンツな存在である。近代の勃興期において日本のヤクザと同様にアメリカのギャングも部分的に公権力と癒着して(非合法な暴力行使と暴利の商売を黙認されて)、『地域の自治・紛争解決(煩雑な訴訟を経由しない顔利きの威圧による即時の問題解決)』に利用される『必要悪』としての側面を色濃く持っていた。

映画の冒頭、ニューヨークの中心街“ファイブ・ポインツ”の支配権を賭けて、ヴァロン神父率いる『デッド・ラビッツ』とビル率いる『ネイティブズ』というギャングの二大勢力が血で血を洗う大規模な決闘を展開する。極めて凄惨・残酷な殺し合いであるが、この時代のギャングの決闘は銃火器(飛び道具)を使わず、ナイフやソード、斧、ハンマー、鉄棒といった獲物を持っての肉弾戦であったようだ。

この決闘は『アイリッシュ(新規の移民)とWASP(自称アメリカ先住民)の衝突』であると同時に『カトリックとプロテスタントの対決』でもあり、祖国のあるヨーロッパで延々と繰り返されてきた民族・宗教戦争の新天地アメリカにおける焼き直しでもあるのだ。

デッド・ラビッツの宗教・軍事のカリスマ的指導者であったヴァロン神父(リーアム・ニーソン)は、アムステルダム(L.ディカプリオ)の父であるが、ネイティブズの凶暴なリーダーで積年のライバルであったビル・ザ・ブッチャー(ダニエル・デイ=ルイス)との直接対決に敗れて殺されてしまう。少年院に収監されたアムステルダムだったが、16年後に父の仇を討つ復讐を成し遂げるため、再びネイティブズが支配するニューヨーク、ファイブ・ポインツの地に足を踏み入れるのである。

近代社会が十分に成熟するということは、自力救済(民間暴力)を放棄した社会契約に基づく『法治主義』が行き渡るということであり、『民主主義の選挙と議決の結果』に対して暴力を用いた転覆(クーデター)が行われなくなること、人々が民主主義に反する暴力の脅し・威圧による私的な権力を認めなくなるということを意味する。

国家権力(軍・警察)が暴力を独占すること、そして、紛争解決手段が当事者・一味同心の暴力闘争(私闘の殺し合い)から司法判断(法の権威と執行の尊重)に移ることは、古代から中央集権を理想とする公権力の重要な役割であり、『訴訟権』を独占的に掌握することは公権力の強さの証明でもあった。

近代化が進めば、普通は市民社会から民間暴力(ギャング・やくざ)と武器(銃火器・刀剣)が概ね排除されるのだが、アメリカは合衆国憲法で『市民の武装権(銃器の販売・購入・所有)』を認めている先進国では珍しい国である。

市民革命(アメリカ独立戦争)の歴史と概念の定義からして、武装権の主体は『国家権力に受動的に統治される国民』ではなく『市民社会を構築して自治・自衛する市民』である。市民の武装権はただ自分で自分の身を守るというだけではなく、『社会契約に含まれる革命権(抵抗権)・人民主権の担保』でもあるとされる。

国家権力のみに暴力を独占させれば確かに市民社会の安全は保たれるが、警察・軍隊を動かせる政府(政治権力者)の独裁・暴走が起こった時、主権者であるはずの市民が何ら抵抗手段を持たなければ、従属者となって一方的に支配される恐れがある。

だから、市民社会及び人権保護の最後の防波堤(国家権力と市民社会の潜在的暴力の綱引きの表象の権利)である『武装権』を、法律で一律に禁止することはできない(独裁・犯罪など有形力の不当な支配に対して市民が抵抗しようとする武装権は不可侵な人権の一部)という独特なロジックでもある。

アメリカという連邦国家は、軍隊(民兵)を持つ州政府の自治権がかなり強く、地方・民族・宗教の共同体や中西部の地主(農場主)の自主独立精神も強いという意味で、『国民国家(国民性)と市民社会(市民性)の並列性』の強い国でもある。

日本の歴史でも前近代社会及び近代初期の社会では、『国家権力・法の支配による司法(裁判)の秩序』以上に『民間暴力・自警集団による自力救済(暴力)の秩序』が大きな影響力を持っていた。日本のいわゆるヤクザも、法の支配に依拠しない市民社会の顔利き(即時の紛争解決)や荒くれが集まる労働現場・繁華街の統制において、権力と癒着しながら相互に利用しあってきた歴史を持つ。

『ギャング・オブ・ニューヨーク』では、ギャングは恐怖の対象であると同時に自由の象徴でもあり、市民を『南北戦争』に徴兵しようとする連邦政府の国家権力(国民としての徴兵・忠誠の義務の強制)に対抗する暴動勢力の一部にギャングが加わっていた歴史が描かれていたりする。

強力な兵器を持つ国家の軍隊が、徴兵に反対して暴動を起こす武装市民に対して射撃・砲撃を行って力で屈服させようとする。『南北戦争の内戦』と同時並行する形で、『国家権力(中央集権)と市民社会(自治共同体)の内戦』が行われていた複雑な歴史がその相貌を見せている。

ギャングをはじめ、大勢の市民が既に武装していたアメリカの歴史において、市民を連邦政府の権限で徴兵できるかどうか(無条件に国家権力に従わせられるか・法権力に従わない者に確実にペナルティを与えられるか)というのは、『アメリカという多民族国家の統合性・国家理念へのコミットメント(バラバラではないアメリカ人としての国民アイデンティティ・忠誠心)』を問うきわどい試金石でもあった。

法的根拠を持たずにファイブ・ポインツの独裁者として振る舞うビル・ザ・ブッチャーは『法権力に従わない荒くれ者』であるが、ビルは自らが連邦政府や法権力の秩序の上にあることを示すため、『選挙で当選したアイリッシュの政治家』を惨殺して、民主主義(民意の反映)さえも暴力の脅しで否定してしまう。

しかし、アメリカにおける『連邦政府の正統性』を支える民主主義の普及と拡大は、法的根拠(議会通過)のある徴兵制の波がアメリカ全土を覆っていくように、次第に『暴力・利権のみに依拠したビルの私的権力の足場』を付き崩そうとしていた。ビルを長年支えてきた市民社会の慣習(力の論理)のモードそのものが、言論・議論と民主主義の信奉へと切り替わりつつあったのである。

映画のストーリーとしては、父のヴァロン神父を殺されたアムステルダムが、ビル・ザ・ブッチャーに気に入れられて『擬似的な親子関係』のような親密さを深めていきながらも、『父殺しの復讐』を果たすというエディプス・コンプレックスになぞらえた構成が巧みである。

アムステルダムはジェニー・エヴァディーン(キャメロン・ディアス)というビルの昔の女を奪うのだが、ビルからヴァロン神父の息子だと見透かされて追い詰められていく過程で、ジェニーからサンフランシスコに一緒に逃げようと誘われるが、『女との関係』よりも『父への復讐』を優先することになる。

エピローグでは、ニューヨークの18~19世紀の古い映像(貧困・混沌・暴力の表象)から、次第に世界経済の中心地となり摩天楼が立ち並ぶ新しい現代のニューヨークの映像(富裕・秩序・理性の表象)へと段階的に切り替わっていくが、アメリカの歴史の原点にあった移民・宗教・暴力(武装)・市民性について考えさせられる映画である。

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