学校の勉強は何の役に立つのか?:高学歴者の人生はそうでない人よりも幸せか。真のプラグマティズム。

学校の勉強とそれに基づく知識教養が個人の幸福に結びつくかは確かに未知数だが、人生の選択肢は広がる。実利と関係ない知的好奇心・教養趣味の強さは『知る・語る・書くが好き』かどうかの差、『知』は幸福と不幸の両方の種なり。

「学校の勉強なんて役に立たないじゃん!」と言われたら、どう諭す?

世の中、深く考えず余計な知識を蓄えない方が、案外スムーズに気楽に生きていけるケースが多いのも事実の一面ではある。勉強ができる人の方ができない人よりも人生の総体として分かりやすく幸せになるか(精神を病まず天寿をまっとうできるか)というとそうでもない印象もある。読み書き計算レベルは必須の能力としての話。

高学歴で広範な教養・文化・素養の持ち主というのは、その精神世界の版図が広く話題・着想が豊富で、物事の道理と自然の摂理(法則)を一通り知り得ている者ではあるが、身体・欲望軽視の主知主義に陥る事で『感じる事・楽しむ事の価値』が混乱し、社会一般の平均的な幸福・快楽の軸から行為の志向性が脱臼しやすくなる。

子供の『勉強して何の役に立つのか?』の問いは、人生を謳歌するプラグマティズムの視点からはクリティカルなものとも言える。分かりやすい損得勘定に照らすなら、勉強ができることで高学歴・難関資格等を得られ、平均より高い所得を得る可能性が高まるとか結婚の異性選択・育児に必要な経済力で有利云々になるのだろう。

その意味では、勉強ができなくても『社会一般の平均的な幸福・快楽の軸(金・異性・家族等)』で動いていくマイルドヤンキーのような人のほうが、高学歴の職業エリートではなくても『下手なプライド・複雑で迂遠な思考・実存的な苦悩』に振り回されないだけ、シンプルな幸福・目的に行き着きやすい分、プラグマティックだ。

大学の教職員なら実利もあるが、アカデミズムや教養趣味は、世俗的な目標達成のプラグマティズムから遠ざかりやすい。『何かの役に立つかどうか』より『知識・計算・文献による対象の理解・解釈』に高揚しやすい。努力して勉強する一般の人は、やはり何か役に立つか得をするかの点に関心があるが、それは俗だが適応的でもある。

自らの文化圏・職種や語り合う人間関係によっては見えにくいが、大人の社会では『毎日、知的要素のある文章を読んだり複雑な内容を考えたりしている人』のほうが圧倒的少数派である。過半の大人は、多くの本は読まず政治・経済・社会の細かな内容も調べないが、逆にシンプルな行動原理のほうが悩みも少なく生活しやすい。

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