『選択的夫婦別姓』を認める人・認めない人

数十年前から、選択的夫婦別姓を巡る議論は行われているが、この問題に『当事者性を持つ人』は主に以下に該当する人たちである。

■夫婦別姓、最高裁の判断は? 旧姓使用が広がるなかで

1.結婚制度を利用したいが、『旧姓を変えなければならない夫婦同姓』が嫌だったり不都合(不利益)があったりする人。

2.結婚制度を利用したいが、『結婚する相手(主に自分側が姓を変えなければならない女性など)』が夫婦同姓に反対している人。

3.子・孫が結婚するが、『夫婦別姓の結婚は容認できない(相手が自分の家の姓を名乗らないなら結婚を認めない)』という親・祖父母などの親族。

4.子・孫が結婚するが、『夫婦同姓の結婚は容認できない(自分の子が相手の姓になるのなら結婚を認めない)』という親・祖父母などの親族。

厳密には選択的夫婦別姓というのは、『結婚するみんなが夫婦別姓にしなければならない制度』ではないから、本来は『今まで通りに夫婦同姓にしたいというカップル・親族』の選択や利益を損ねるものではない。

しかし、『結婚するみんなが夫婦同姓にしなければならない制度設計』を守るべきである(今までの結婚の慣習・法律のルールに従えないカップルは結婚すべきではなく事実婚にすべきだ)という思いを持っている人たちが多くいるので、『選択的夫婦別姓の議論の余地』が生まれてくる。

選択的夫婦別姓を認めて欲しいという人は『個人主義的・自由主義的・選択的な結婚観』を持っていて、選択的夫婦別姓を認めないという人は『集団主義的・統制主義的・義務的な結婚観』を持っているのだが、『結婚』という男女を経済的・性的に結合させて次世代の子供を育てるための制度の捉え方が変わっている“過渡期”ゆえに起こる論争でもある。

かつては90%以上の日本人が使っていた結婚制度そのものの利用率がここ30年ほどで急激に低下していて、2035年頃には男性の約3割、女性の約2割が結婚制度を利用しないまま生涯を終えるとも推計されていて少子化の原因の一つにもなっている。

『義務的・慣習的な皆婚(女性が男性のイエの一員の嫁になるという旧来的結婚観念)の終焉』と『選択的夫婦別姓・パートナーシップ協定・同性婚の議論の発生』はかなり密接に相関している。

端的には、明治期から1980年代くらいまでの過去の結婚は、『家と家との結合・財と性(子)との交換という義務的側面』が強かったが、それが『個人と個人との結合・対等な自由意志に基づく修正可能な契約という選択的側面』にシフトしてきた。個人個人のニーズや選好を制度設計に反映させよという人が増加して、伝統的な義務とイエとの結婚観に依拠してそういった個人をわがまま(今まで通りの規範に反対する人をわがままと捉える人たちから見てのわがままだが)は許さないと抑圧する保守層がかなり薄くなってきているのである。

欧米の『LGBT運動・同性婚』の背景とも重なるが、伝統的・義務的な個人を社会規範にはめ込んでゆく制度設計にこだわらない人の数(自分は自分・他人は他人でいいから強制してまで干渉すべきではないという人)が増えれば、『合理的理由の弱い制度的な強制』は解除される流れが生まれやすい。

確かに、婚姻制度・出生率低下に限らずこういった個人主義・自由主義に偏っていく先進国の流れが、『伝統的な社会構造・家族観の破壊』や『全体社会の生産力・団結力・人口再生産力の低下』として作用する側面は否定できないが、『全体(社会・家)のために生きる個人というモデル』をあらゆる人に強制できるような意識・理念・世間体(みんなと同じでないと恥ずかしいの同調圧力)などの旧来社会の秩序基盤を維持することが困難になっているということの現れでもある。

選択的夫婦別姓に反対する理由として多いのは、『伝統的家族観(家族の運命共同体的な一体感)が崩れやすくなる・既婚者かどうか結婚したかどうかが外部から分かりにくい・姓の変更がないので離婚しやすくなる・子供の姓の選択で迷いや争いの原因になる』などがある。

絶対に夫婦同姓でなければならないという人の価値の根底にあるのは、『義務的・社会的な終身婚姻観』あるいは『どんな時も利害を共有する運命共同体性』であり、原則として夫婦は別れてはならないとする価値(夫婦同姓のほうが別姓より離婚しづらいはず)を前提としている。

更に、『女性が男性のイエに入ってその一員として義務を果たす+姓・墓・財を同姓夫婦とその子孫が継承していく祖先崇拝』を婚姻制度の不可欠な要素の一部と見なしているので、結婚は個人単位の男女の同意だけに基づくものではないということになるが、そういった考え方を持つ人に、選択的夫婦別姓が認められにくいのは『結婚は憲法条文のままに男女・個人の合意のみによって基づくという原則(憲法に明文化されていない歴史的・集合的・慣習的な婚姻制度の本質と信じている義務的なものの軽視・否定)』を押し通そうとしているかのように受け取られるからであろう。

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