現代に甦る“選択権・科学知の優生思想”と“五体満足で生まれてくれさえすれば~”の高齢者世代

障害児・障害者の出生を巡る議論には常に誤解と文脈のズレ、感情のもつれがつきまとう。

自分が障害者であるか否か、家族や友人知人に障害者がいるかいないかの『当事者性・実際の負担の有無』を抜きにすれば、『障害者の出生前診断や堕胎への賛否』というのは“他人事の圏域”を出ることはないから、一般論として障害胎児の堕胎をすべきではないといっている人が、その当事者(母)になれば堕胎の選択をすることは十分に有り得る。

■障害児出産発言、茨城県教育委員が辞職申し出

“健康(美しさ・強さ)”を賞賛する悪意のないナチュラルな優生思想的な感覚でも、それを発言する時の立場・肩書き・環境・聞き役(聴衆)によっては、『障害者差別の問題(下手をすればナチズム賛同疑惑)』としてクローズアップされてしまう。長谷川氏のような政策・教育に一定の影響力のある公人は、『障害胎児の堕胎の賛否』については、親となるべき当事者の選択に任せるという以上の踏み込みをすべきではないのである。

教育委員の長谷川智恵子氏(71)が『茨城県では減らしていける方向になったらいい』と発言したことで騒動が広まり辞職することになったが、教育委員や政治家、産科院長など公人としての立場で『障害児の出産・堕胎・幸不幸にまつわる価値判断』を明言することは原則として倫理的・福祉的なタブーである。

おそらく長谷川氏は特別に深く考えず、昔ながらの健康な赤ちゃんを願う親・祖父母の一般的な気持ちを前提にして、『五体満足で生まれてくれさえすれば他に多くは望まない』といったようなニュアンスから、行き過ぎた『障害児の出生前診断+堕胎の選択の推奨』という公人のタブー領域に言及してしまったように思う。

自分の家族や親しい知り合いに、頑張って自分たちなりの幸福や可能性を追求しながら生活している障害者・障害児がいれば、軽々しく『障害者を減らせる方向性になればいい・妊娠初期にもっと障害の有無がわかるようにできないのか』とまでは踏み込めないものだ。

ここで、周りに健常者ばかりしかいない、重い障害者やその家族のことを慮る配慮を普段からしていないという長谷川氏の世界観や人間関係(付き合いの範囲)の狭さが露呈してしまったといってもいい。

『障害者より健常者が良い』というよりも、長谷川氏にとっては恐らく『障害者が身近に目につかない生活環境・健常者だけで構成されていてスムーズに展開する人間関係や職場』が当たり前の基準になっていたのである。

この不適切発言をした教育会議が、仮に障害者団体主催の講演会であれば、長谷川氏もこんな発言をしたはずはなく、『聴衆・関係者に健常者しかいないだろうとの臆測』の元に、『障害があるよりはないほうがいいと感じるのが普通というナチュラルな優生学』が顔を覗かせたのだろう。

長谷川氏について、ナチスドイツのように今社会で生きている障害者やこれから生まれようとしている障害児を、政策的に強制的に虐殺したり断種したりするような差別主義の価値観を持っているとまでは到底思わない。

だが、『選べるのであれば障害者よりも健常者がいいというのは当たり前のはず・医療的に可能であれば障害を軽くしたり治したりしたいと思うはず』という多くの人が持っている“ナチュラルな優生学”がつい口を突いて出てしまったのだろう。
この自然かつ無意識的な『健康でいたい・健康であってほしい・障害や欠陥はないほうがいい』という優生主義の価値は(倫理的・対人的配慮から口に出すか出さないかは違うが)余計になくすことが難しいものである。

人類は病気・障害・奇形などの不遇や困難に対して“倫理・慈悲・福祉・ヒューマニズム・人権”という動物的次元に留まらない人間理性の成果によって包摂しようと努めてきた歴史がある。

しかし、現代においてもなお長谷川氏的な『障害者のいる家族は大変そう・選べるのであれば障害はないほうが良い・不便で可哀想だから支援してあげないと』といった差別感情と福祉・慈悲が入り混じった上から目線(自分がそうなったらとても耐え切れないとの思い)は完全には解消できていない。

インフラ面ではノーマライゼーションやバリアフリーが進んでいて、税金によって障害者福祉に貢献しているとしても、障害者・その家族としての当事者性からは距離を置く健常者が大半だということである。

『障害がない現状のほうが自分や家族にとっては望ましい・障害は私自身が背負える運命ではない・障害とその影響が今の自分の生活に深く入ってくることは避けたい』と感じてしまうことそのものは否定できないが、健常者が『障害者との差異』を現状との比較で価値判断してしまう瞬間に、無意識的な差別や不安が生まれるとも言える。

遥か古代から両親は『どうかこの子が五体満足で健康で生まれてきますように』と神仏に祈りを捧げてきたが、この子孫の心身の健康を願う気持ちは誰にも否定できないもので、『自分・身内の出生前の子に対する希望』としては半ば本能的な願いだろう。

しかし、長谷川氏が言わんとしていたことも、平たく言えばこの高齢者が孫の誕生にあたって『五体満足で~の決まり文句』と同じで、『敢えて障害や病気を持って生まれてきて欲しいと思う親はいないはず』という安易な常識感覚にのっかったものなのである。

そこに実際に五体不満足の人生を快活に生きてきた乙武洋匡氏がでてきて、『長谷川センセイ、私も生まれてこないほうがよかったですかね?』と当事者性を直撃するようなストライクゾーンで返信されてしまうと、『今生活しておられる障害者の方々を否定する意味合いではなくて~』というしどろもどろな説明になりがちである。

『既に生まれてきて生活している障害者』と『生まれてきたばかりの障害のある新生児』と『まだ生まれていない障害があると判明している胎児』とが混同されているわけだが、分かりやすく言えば、出生前診断で染色体異常・身体欠損などが分かれば中絶の選択をする多くの人たちは、『既に生まれてきて生活している障害者』と『生まれてきたばかりの障害のある新生児』といった自分が深く関わらない“他人の障害者”を差別して否定しているわけではないだろう。

また、事前に予測できない出生後の確率的な事故・病気によって生じる障害まで否定しているわけではなく、仮に自分や家族が事後的な障害者になったのであればそれを運命として受け容れ献身的に介護する人が大半だろう、つまりは『医療の進歩による科学知』によって事前に予測できる種類の障害の発生や関わり合いを回避したいという思いが強いのである。

『自分と障害を持つ子供(胎児)との間に当事者性が生じてくる状況』を否定しているということになるが、これは出生前診断・中絶によって『不可避な運命・義務』と『意志的な選択・責任履行』との間に一呼吸置ける(妊娠後にも胎児の状況をチェックできる)という現代的というか科学的な価値判断に根ざしているものでもある。

『胎児に遺伝的異常があるかないかの出生前診断』と『出産するかしないかの自己選択権』が認められている現代では、ナチスドイツのような『国家権力によって障害者が虐殺・断種される積極的優生思想』ではなく、『各個人が自分の選好・利害・価値観によって検査・中絶する間接的優生思想』となって現れてくる。

積極的優生思想の場合には、『生きたいと望んでいる障害者』を虐殺したり『子供を産みたいと望んでいる親』を断種したりという犯罪的な加害性が明白であるために道徳的・法理的にバッシングしやすい。

だが、現代のナチュラルな優生思想である『各個人が自分の選好・利害・価値観によって検査・中絶する間接的優生思想』は、他人の出産・育児・生存権は全面的に肯定して差別や邪魔はしないが、自分が自分の子を出産するか中絶するかを選択する権利にも干渉できないという個人主義なので、全体主義的な強制・弾圧のロジックではバッシングできないのである。

茨城県の橋本昌知事が『医療が発達してきている。ただ堕胎がいいかは倫理の問題』『事実を知って産むかどうかを判断する機会を得られるのは悪いことではない』と語っているのも、政治権力が障害胎児を産んで下さいとか堕ろして下さいとかは干渉・強制しないが、個人や夫婦が胎児の出生前診断の結果に基づいてどう判断するかは十分に考えて話し合って決めてくださいという『間接的優生思想』に意図せずして従っていることになる。

間接的優生思想は現代に甦る“選択権・科学知の優生思想”だが、かつてのナチズムのように個人・夫婦の人生や生命に無理矢理に土足で踏み込んできて殺したり断種したりするものではなく、『私(とあなた)がどのような配偶者や子供が欲しいか、どういった人生設計を実現していきたいかの覚悟・選択による責任の発生』であり、基本的にその『プライバシー領域』には無関係な他者が当事者・強制者として干渉していくことができない。

当事者としての人生を選択できず覚悟もできない人に対して、『敢えて障害・難病を持っている胎児でも絶対に産まなければならない』とすれば、逆に人権侵害や育児放棄のリスクが高まるというのもあるが、そもそも論として『親に誕生を祝福されていない子供を罰や威圧によって無理矢理産ませること』の倫理的是非が現代ではやはり重い。

現代の人権感覚や法的判断では、絶対に産みたくないという女性を監禁して縛り付けてでも産ませることなどまずできないわけで、そこまで一切の中絶を禁止せよ(妊娠した時点で選択の余地なく運命が決定する)という生命至上主義者は、現代では多数派を形成できない。

ナチズムの優生思想は『社会改良・民族浄化の全体主義の産物(生産性重視の強制)』であり、現代先進国の優生思想は『幸福追求・選好強化の個人主義の産物(主観的幸福・好みに基づく選択)』であり、同じ優生思想でも全体から覆ってくるのか、個人単位で島宇宙的に閉じこもっているのかという大きな違いがあるように感じる。

現代の“選択権・科学知の優生思想”は、『健康な人が良い・美しい人(かっこよい人)が好き・健康でないとバリバリ働けない・元気でないと色々楽しめない』だとかの普段は障害者のことを念頭に置いているわけでもない何気ない好みや人生観、楽しみ方、恋愛・結婚の選択等として現れるものである。

障害者の出産・堕胎といったシリアスな倫理問題は、大多数の人(健康・障害の問題で悩んでいない若い人)にとっては『当事者性』が生じない限りは『自分がどうするかの実際の行動選択』とは対応しない言葉遊びの次元(他人事だから産むべきだとも堕ろすべきだとも言えるがいざ我が身となれば迷い悩む)に留まらざるを得ない。

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