人間関係における“必要性(互助・情義)+娯楽性(楽しみ)+功利性(損得)”の原理

かつて人間関係の多くは『所与の地縁血縁』と『人生における必要性(結婚・親戚・仕事などの付き合い)』によって規定されていて、一定の年齢以上になると『好き嫌い・趣味・楽しみだけの為に付き合ったり離れたりする人間関係』というのは原則あまり無かったのではないかと思われる。

「人と仲良くなるのが怖い」という人が抱える心の闇、3つのタイプ

人と人が付き合って関係を形成する基本原理は、以下の3つに分類できる。

1.必要性の原理……『結婚・家族・恋愛の一部・仕事・地縁血縁』などの生きていくための必要性に根ざした人間関係で、いったん構築されてしまうと簡単に離れにくいのが特徴である。

お互いに経済基盤を共有して助け合ったり、情緒的な結びつき(一方的に別れづらい情義)を作ることによって規定されるが、その関係の契機・持続は『自分の好き嫌い・選択』というより『人生・生活・世間体等の必要性』がかなりの割合を占める。

2.娯楽性の原理……一緒に活動できる趣味・遊び・食事を共有したり、共感的な会話をしたりして楽しむための娯楽性・共同性に根ざした人間関係で、『仲の良い友達・恋人(生活の共有までしない段階)・遊び仲間・知人レベル』の多くが含まれる。

娯楽性の原理は『自分が好きな相手・一緒にいて楽しい相手』を求めて、『自分が嫌いな相手・一緒にいて楽しくない相手』から遠ざかるというもので、いったん形成された関係でも一定以上の流動性があって離れることもあるのが特徴である。

3.功利性の原理……その相手と一緒にいてメリットがあるのかデメリットがあるのかという、ドライでビジネスライクな『損得感情』を背景に持っている人間関係で、冷静沈着に功利性のみに徹して関係を調整する人は『詐欺師・冷淡な人(心のない人)・強欲な人(ケチな人)・サイコパス(ソシオパス)』といった印象を強める。

しかし、功利性の原理はある程度は『必要性の原理』や『娯楽性の原理』とも重複しているし、3つの原理はそれぞれ独立しているのではなく相互に影響を与え合っているものである。

大半の人は『付き合っていてマイナスの影響ばかりしか受けない相手・一緒にいて不快感や迷惑や損失ばかりを与えられる相手』からは自然と遠ざかっていきやすいし、それは視点を変えれば『自分が不当に利用されている・相手の不満や不安、苦境のはけ口にされていて自分自身の人生を全く楽しめない』という被害者意識を煽るような関係になっているということでもある。

経済的であれ感情的(心理的)であれ情義的(責任感)であれ、『その相手と関係を継続すべき何らかの広義のメリット(情緒的な結びつき・責任感や罪悪感等も含め)』を求める傾向がゼロという人は殆どいない。

『人と仲良くなるのが怖い理由』として上げられているのは、『裏切られる・見捨てられる・面倒くさい』だが、人間関係(他者)への過剰な依存性や期待感がある人ほど、『いったん作られた親密な人間関係』に必死にしがみついて要求がましくなり、余計に相手の心理的な負担感・重圧感を強めて離れられやすくなるということもある。

それぞれの気質性格や対人魅力、他人に求めている要素によっても違うが、人間関係の基本はよほど一方的に惚れ込んだり敬服したりしている特別な関係(相手の対人魅力が抜きん出ていてその人がただいるだけ話せるだけで幸せというような関係)を除いては、長期的には『ギブアンドテイク・持ちつ持たれつのバランス』を無視することは難しい。

短期であればそのバランスが多少崩れていたり甘えたりしても良いが、ずっと長期間にわたって『自分だけが相手からの善意・援助を受け取る側』であり、相手に『自分以外とのもっと楽しめる相手との新たな出会いや環境の変化』があれば、『裏切られたような別れ(見捨てられたような交際頻度の減少)』の可能性はあるだろう。

人はずっと同じ地点で足踏みしているわけではない(あらゆる側面でいつまでも変わらない人はほとんどいない)という現実もあるが、もう一つは気質・性格の違いによって、『新たな人間関係ができても古い人間関係もそれなりに維持しようとする人(連絡・会合の頻度は減ってもたまには連絡する人)』と『新たな人間関係や環境に馴染めば古い人間関係を切り捨ててしまう人』との違いもある。

情義・責任に厚くて自分のほうから音信不通にはしない人とか、他者との縁や人間関係を重視する人とかで、それとなく古い人間関係も維持している人はいるが、大半は絶縁状態までにはならなくても、アドレス帳に残ってはいるが改めて連絡はしない人(いつの間にかそれぞれの別の人生・関係へと分岐していった人)といった位置づけになっていくことが多い。

お互いに生き方や環境、人間関係が変わっていく中で、自然に連絡や会う頻度が減っていて、何となく自然消滅したという形であれば、お互い裏切ったや見捨てられたというネガティブな印象は残らないこともあるし、何かの機会に何年ぶりかに連絡してちょっと話すくらいの関係に戻ることはあるだろう。

人間関係は面倒臭いし嫌な思いをすることもあるは、人間関係は楽しいことも多いし良い人も多いと同様に一つの真理である。

結婚・仕事・家族・職場などの『強力な必要性に根ざした人間関係』は途切れにくい。

それは『好きだから・面白いから・楽しみにしているからその人に会いに行く』という側面もあるが、それ以上に『家族で同じ場所で寝起きして生活している・子育てや家計など共同で義務を負っている・仕事だから行かなければならない・生きていくために収入や精神の支えがいる』などの必要性・日常性のレベルに落とし込まれていて、好きも嫌いもなくそう簡単に選択の変更はできないし、既存の関係性からの離脱もできないから(その関係や役割を改めて否定すれば自分の存在意義やアイデンティティーも揺らぎかねないから)である。

一般的な友人知人のレベルで人間関係が面倒臭いとか裏切られるかもしれない(見捨てられるかもしれない)というのは、言い換えれば『そこまで絶対的な必要性に根ざした関係ではない(生活基盤や相互の責任まで共有しないので目に見えない好意・情義の強度は推測の域をでない)』からである。

逆に言えば、『簡単に離れられない相手・絶対に裏切らない相手』というのは、自分自身の事情や状況が変われば、『必要性・束縛性によって離れたくても離れられない面倒で厄介な相手(ストーカー的なつきまとわれ感・自分の人生の自由や安らぎのなさ)』に変質してしまうこともあり、『人間関係における原理主義・強制原理』というのも必ずしも好ましいものではない一面を持つ。

『どちらかがやめようと思えば簡単にやめられる関係』であるにも関わらず、『どちらかの感情・期待・依存・要求のレベルだけが一方的に強まる可能性(あるいはどちらかの環境や生き方、方向性が変わって相手の必要性が変わる可能性)』が常にあるということが、『裏切られる・見捨てられる理不尽な思い』につながりやすい。

『自分の人生は自分のもの・相手の人生は相手のもの(相手の関係性に応じた分の義理・責任は果たすべきとしてもそれ以上の相手の人生や選択権の独占など考えるべきではない)』という最終的な認識は、友人知人はもちろん恋人や夫婦の間であっても心のどこかにさらりと持っておきたいものだ。

『荘子』に『君子の交わりは淡きこと水の如し』とあり、『論語』には『己の欲せざる所、人に施すこと勿れ』という処世訓もあるが、こういった人間関係の前提を持っていれば概ね人付き合いで過度の苦しみに喘ぐことも少ないだろう。

反対に、長く付き合っていて暑苦しさや過干渉・面倒くささを感じるタイプというのは、『自分が好きなものは相手も好きなはず(自分が嫌いなものは相手も嫌いなはず)』という押し付け感のある人であり、『本当の友人であればこれくらいしてくれて当たり前(してくれないのは人として冷たく自分に対して思いがない)』という情義と奉仕の道徳で相手を責めようとする人だろう。

吉田兼好は『徒然草』の中で、『友とするに悪しき者』として『身分の高い人・若い人(無鉄砲な人)・病気と無縁の強健な人・酒飲み・剛勇の武士・嘘つき・欲張り』の7類型を上げている。

これは世俗の価値観・強制力を押し付けてきそうな人を嫌った兼好の生き方や人間観に合わないタイプの列挙だが、現代で生きる私たちも誰とでも親しく深く付き合うことは無理であるか危険なだけなので、『自分にとって友とするに良き者・悪しき者』の区分の軸くらいは持っておいたほうが良いのである。

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