豊かで平和な社会では“美(外見)の相対価値”が高まるか?:時代の余剰によって“美・力・知の原理”に翻弄されるヒト

生物界の自然選択では“美の原理”というのは“健康(生殖能力)の指標”である。類人猿の艶やかな毛並みや孔雀の華やかな尾羽、ハチドリのカラフルな羽などは、それだけ遺伝的基盤が安定していて十分な栄養摂取(食物の獲得)ができる能力があることを示唆している。

「イケメンや美人は出世しやすい」は本当か

20世紀末から21世紀にかけて、先進国における美人やイケメンの相対価値は格段に高くなったとされるが、それは過去の時代と比較して『生存淘汰圧(最低限の生活のためのコスト)』が小さくなり、『美しさ・洗練・セルフイメージの基準を繰り返し喧伝するインターネット+メディアの影響力』が大きくなったからである。

そもそもヒト(ホモ・サピエンス・サピエンス)の婚姻・恋愛を介した自然選択では、『美しさの原理』というのは数千年の長きにわたって女性ジェンダー(見られる性・選ばれる性としての女性)と深く結びついたものであり、男性の美しさ(見た目の格好良さ)というのはまず問題にされた時代がほとんどなかったのである。

フェミニズムの女性研究者たちは、まさにこの類人猿の段階からの自然選択として連綿と続いてきた『見られる性・選ばれる性としての受動的な女性性(女性の主体性を禁圧してモノ化して婚姻で囲いこもうとする男性原理・家父長制)』と戦ってきた側面がある。

つい数十年前までは男性は『外見を取り繕うのは恰好悪い・男は見た目ではなく能力(組織適応と稼ぐ力)だ・生白いなよなよした男など男ではない』というジェンダーを植えつけられ、義務教育では男は外見を格好つけるなということで丸坊主を強制されたり、長髪・パーマ・洗髪なども『不良・落ちこぼれ・生活の乱れ(非正規的な男性像)』として低く評価される時代が続いていた。

女と比較して男は『見られる性(美しさ・格好良さを査定される立場)』として評価されることに慣れていないし、『外見が好みじゃないからあなたじゃダメ(容貌が生理的に受け付けない)』とはっきり言うことさえある最近の若い世代の女性の主体性(選ぼうとする意志)は、男にとって相当な恐怖であり苦痛(プレッシャー)でもあるだろう。

男性を外見で選ぼうとする若い女性の主体性・選好性というのは、『若者の恋愛離』れの一因でもあるし、『外見・美しさにおけるコンプレックス』というのはかつては女性に多かったが、近年は男性のほうにも増えていて『コンプレックス関連産業(見かけを格好よくすることに関係したビジネス)』の市場規模が拡大傾向にあるとも言われる。

確かに、若い世代ほど『平均的と見られる外見・おしゃれのハードル』が高くなっていて、過度に華やかさを競い合って進化の袋小路に陥った孔雀の尾羽のように、ヒトもまた本来の『生存淘汰圧への適応・健康指標』を超えて『社会的・性選択的な高望みの圧力(社会的承認競争+視覚的娯楽のインフレ率)』を高めているのである。

メディアでは一般社会には極めて比率の少ない美人やイケメンが当たり前のように映像として映し出され、容貌が優れている者と優れていない者との待遇の差異(皆にちやほやされて賞賛されるか対人魅力が低いとして軽く扱われるか)がある種のお決まりのクリシェ(紋切り型)となっている。

そこには『勤勉と力の原理(旧来の男性ジェンダー)』が介在する余地が乏しくなっているどころか、容姿を売りにしている著名な芸能人は『美と力の原理』の両面において圧倒的に一般庶民を上回っていることのほうが多い。

少し前までは、男社会では『色男、カネと力はなかりけり』の嫉妬もありきのスローガンで、あいつは外見だけは良くて女にモテるかもしれないが、体格がひょろくて根性がないから『肉体労働・男同士の喧嘩の場』では使い物にならないモヤシのような優男だ、男としての本当の価値では俺のほうが上だという認知(男性ジェンダーの支え)によって『外見上のコンプレックス』はほとんど無効化されていた。

『理想と現実は違う』というのは誰しも分かっているが、かつて旧時代の理想の美人像(ハンサム像)というのは『頭の中の想像・妄想』か『村落内部の狭い範囲での美しさの競争(遠いどこかの美人・美男子の噂話)』に留まっていて、現実の強度・足場(生きていくための仕事と協働するための男女のカップリング)は理想に侵食されないほどに磐石だったのだ。

今や『理想と現実は違う』とはいっても、過去と比較すれば外見的な好みの妥協の度合いは格段に下がっており、よほど生活・仕事で追い込まれた状況でない限りは、『昔のような生活・社会的義務だけのための相手選び(顔を見たこともない人との縁談を典型として外見をほとんど問題視せずに結びつく)』が減っている。

男性社会において『男性上司がイケメンを仕事上の脅威と感じて冷遇する』という記事にある傾向は、女性社会において『女性上司が美人(可愛い子)を冷遇する』という傾向とはまた違った心理に根ざしたものだろう。

美しさというのは進化の歴史的起源からすれば『健康状態の指標』であるか『異性に選ばれるための受動性(快的な視覚刺激)』であるかであり、ヒトの場合には男性ジェンダーは『力の原理』で同性間競争が行われるように設計され、女性ジェンダーは『美の原理(厳密には美と家事・育児を含めた補助労働の原理)』で同性間競争が行われるように設計されてきた。

男性間競争が『力の原理』で行われてきたというのは、最も原始的時代であれば端的に『暴力や戦闘の強弱・体格や気質の威圧力の強弱』であり、古代社会では英雄・豪傑のような暴力・胆力(暴力の集団的な統制力)に秀でた男性こそが『最強のアルファー・メイル(高い地位の男)』として、財や異性を主体として選び取ることが可能であった。

『力の原理』というのは、『暴力・武力の競争』だけではなくて『地位・名誉・権力の競争』を含んでいるが、分かりやすく言えば自分が社会においてどれだけ強くて影響力を振るえるか、どれだけ多くの権益を保持できるかという『主体性の強度の原理』なのである。

相手から自分の美しさや格好良さを認められるかどうかの『客体』ではなくて、社会で各種の力を持っている自分が美しさや格好良さを持つ相手を選ぶことができるという『主体』の原理として考えることができる。

『力の原理』のもっとも分かりやすい典型例が、秦の始皇帝が天下の美女3000人を集めたとかの伝説から始まり、かつての天皇・将軍の後宮制度だとか、近代初期の金持ち(成金)の妾制度だとか、チャーリー・シーンの買春5000人切りだとかであるが、こういった力の原理が分かりやすく通用する時代というのは『女性の人権・主体性・選択権がない時代(女性の好ましくはない境遇)』なのである。

現代においても、実際の経済生活や社会適応、競走場面で役立つ『力の原理』は有効な場面は多いのだが、この力の原理だけではどうしようもないものとして、すべての人に基本的人権が保障された平和で豊かな時代(粗野・乱暴・強制を嫌うセンスが洗練された時代)における『美の原理』というものが存在感を強めてきた。

『力の原理』というのは、力を持つ者が力を持たない者を無理矢理にでも服従させるという原始的で粗野な側面をどうしても併せ持つが、『美の原理』というのも、本人の自助努力だけでは大幅には変えにくい遺伝形質(遺伝子の発現型)で性的な対人魅力(第一印象の好感度)の優劣が判断されるという理不尽な側面をどうしても併せ持つ。

なぜ数十年前までは、男性社会で『美の原理』がほとんど問題にならなかったのかは、『男性の外見(特に有力者の外見)を批評することが社会的禁忌に近かった・サービス産業の比率が少なかった・男性同士の上下関係における力の原理が圧倒的に機能していた・男性ジェンダーから美の原理が除外され続けた・女性も男性の外見をあまり気にしなかった(とにかく経済生活が第一であった)』ということにあるだろう。

『力の原理』と『美の原理』の相関関係で面白い所は、男性社会におけるトップの地位にある男性は『力の原理』では圧倒的な影響力を保持しているが、必ずしも『美の原理』において優位にあるわけではなく、これはサルの社会でもボスザルのアルファー・メイルが必ずしもメスから外見的特徴でモテる個体ではないことに共通しているという。

無類の女好きで天下の美女を集めたとされる豊臣秀吉も、外見的にはイケメンではなくサルと呼ばれるほどに風采が上がらなかった(実力・権力がなければ女性に好かれる要素は乏しかった)とされる。

近代以前の時代は概ね男性社会では『力の原理』の支配力・影響力が圧倒的であり、男同士の競争において美の原理が幅を効かせる社会の余裕がなく、またその男性側の美の高低を女性が評価して選ぶことそのもの(女性が性的主体となって男性社会の力の原理の秩序を乱すこと)がかなり規制されていた。

元々、自然界では外見の美醜は『健康・遺伝形質の好ましさの指標』以上の意味合いを持ちづらく、生物一般には権利も道徳もないので最終的には『力・機能の原理』のほうが『美の原理』を上回ってしまうことのほうが多い。

そこからすると、『美の原理』というのは、生存淘汰圧を一定以上に上回った楽に生きられる状態になった種が求める『生存・生殖の余剰(個体の快的な感覚刺激・性選択)』でもある。

かつての有閑な貴族階級が芸術・スポーツ・恋愛といった(動物的な生存とは関係しない)美学に耽溺していたこともその余剰性との関連があり、現代社会ではその精神性においてかなりの部分の人が貴族的な余剰性の中に生きている(それは実際の経済生活が豊かか否かとも関係なく時代精神とメディアのモードとして広義の美学の影響を受けていて泥臭くなりきれない)のである。

男性と女性のどちらが、職場で美しい同性の同僚・部下に対して嫉妬深いのかは一概には言及しにくいが、男性の労働現場は『近代産業社会の産業構造の転換(労務管理・サービス・営業や接遇・プレゼン・交渉等)』によって大きく『女性と一緒に働く職場が増えた+顧客と直接コミュニケーションする機会が増えた(見込み顧客に対してできるだけ良い印象と信頼感を与えなければならない)』という変化を蒙った。

この産業構造の転換は、かつての『自然』を相手にする第一次産業、『モノ』を相手にする第二次産業と比較して、かなり『他者が自分の外見の印象をどう見ているか・一緒の職場にいる異性の同僚からどう評価されるか(最低でも生理的に嫌悪されたり軽視されないか)』に左右される要素を増やしたとは言える。

炭鉱や工場、工事現場で全身真っ黒になって、時には刺青の入った上半身を裸にして、汗を滝のように流して、体力の限界まで働きぬくような肉体労働であれば、イケメンだろうが美人だろうが、そういった知覚刺激の優位性はほとんどなかったはずである。

むしろ極端に洗練された美しい外見の同性の男は『ひ弱なお前じゃこの仕事に耐え切れないから帰ってくれ』とされ、女性であれば『あんたなんかが来る現場じゃない(こんな所で化粧して色気を振りまかれても迷惑だし荒くれの男に襲われかねない)』となって、容姿の良さが逆効果にも成り得た。

容姿端麗の魅力というのは性格・話術ともセットになった『対人的・交渉的な魅力』であり、特に『洗練された近代的なオフィス・店舗』において環境適応度を高める可能性が高くなっているが、言わずもがな自然世界やモノの世界においては美しいかどうかよりも、実際に体を動かして勤勉に働くかどうかのほうが重要ということになる。

だから、社会全体に余剰性がなく一次・二次の産業がメインであった昔の時代の農家の嫁などでは、容姿が良いか悪いかよりも、体が丈夫で働き者か子供が産めるかという経済・労働の上での実利のほうが圧倒的に大切だったわけである。

『美の原理』というのは、それそのものでは何かを作り出したりする生産性のあるものではなく、スタティック(静態・受動態)かつ観賞的・官能的なものであり、言い換えれば、みんながそれが良いと思って優遇する(自分を見ている者を自分にメリットのある方向に動かしやすい)から価値が共認されるという『宗教・観念・承認の原理』というものに近いだろう。

肉体労働より頭脳労働が優位となり身体的な暴力・強制のほとんどが人権で規制された現代では、『力+勤勉の原理』よりも『美+知の原理』が上回りやすい場面が増えていて、ある種の理不尽さや不公正さを生み出している。

だが、それはかつての『力の原理による格差』が『美の原理による格差』に置き換えられやすくなっただけともいえ、余剰性のなかった生きることに必死だった昔は昔で、『力(暴力・権力・財力・身分)』で無理強いされたり屈服させられたり殺されたりする理不尽があったはずである。

『生存のための圧力・苦労(自然・モノと向き合って地道に生産活動を行うタイプの仕事)』が減れば減るほど、『平等な人権・暴力の禁圧』が認められれば認められるほど、人はかつての余剰性の象徴である貴族主義に相当する『美+知の原理』に影響を受けやすくなる傾向がある。

それは現代の平和で豊かとされる先進国と紛争・テロが絶えない途上国の社会風潮や時代モードの違いを見れば、後者は男には外見・愛想(話術)の良さがほとんど求められないが分かりやすい暴力・胆力・実行力が求められる(+女には男を選ぶ人権そのものがほとんどなく力のある男を拒絶すれば殺されかねない)という違いが明瞭でもあるだろう。

現代の日本では、暴力と胆力の男性ジェンダーの精錬であった“極道・ヤクザ”はもはや、その生態学的地位(ニッチ)を法的にも倫理的にも世論的にも失いかけていることも、ジェンダーフリーや平和・繁栄の常態化、見かけの相対価値の上昇の分かりやすい現象面ではある。

一方で、人類の長大な歴史軸あるいは現在でも近代化していない紛争・乱暴の多い地域では『いざとなったら命を賭けてでも敵対者を制圧するか殺害する』という旧来の武装階級を原点とする男性ジェンダーの社会的評価(必要悪的な是認)がなお健在であると言える。

そういった広義の暴力・強制力によって地位や白黒をつけるという男権主義の社会構造・権利感覚が近代化されると、『暴力・戦争はすべてダメ(力が強くても地位が高くてもそれを認めない女性が増えたり、男性間でも暴力的序列が企業労働以外ではなくなっていく)という旧来的な男性ジェンダーの否認』が起こりやすくなり、段階的に男性も女性も『美の原理(知覚刺激・感じの良さ・話の楽しさの基準)』に合わせた行動や選択を行いやすくなってしまうのかもしれない。

スポンサーリンク