教員の性関連の不祥事と職業倫理の緩み:“現代の性の倫理観・多元性・破滅性”

教職員の生徒に対するわいせつ事件の発生件数が高止まりしているという記事だが、性的な重犯罪を除く『軽度のセクハラ』に関しては20年以上前は現在よりも酷い状況(酷いとさえ思われない認識のギャップ状況)にあったのではないかと思う。

教師が明らかな性的意図を持って下ネタを振ったり、お気に入りの女子生徒と馴れ合いのコミュニケーションをしたり、体育教師が授業中に不必要なボディタッチを繰り返すなどはざらにあったが、それらが事件・不祥事として認識されるための社会的な共通認識がなかっただけだろう。

<教員処分>わいせつ行為で205人 勤務時間外が6割超

性関連の不祥事を起こす教員のタイプは大きく分ければ、『元々子供に性的関心を持っていたロリコン』『性的なフラストレーションや異性関係の不満を鬱積させて発散の場のない欲求不満者』『教職のストレスに耐え切れずに倫理観が崩壊した逸脱者(メンタルヘルスの悪化者)』などになるだろう。

いずれも教職員としての資質・適性に欠けるといわざるを得ないが、残念ながら現状の採用・研修・雇用の仕組みの中では、実際に性的な不祥事を起こさない限りは、表面的にはそういったセクシャリティーの嗜癖性・逸脱性を現すこともないのでスクリーニングすることは困難である。

教員であれば、個人の性嗜好として若い子が好きであるとしても、最低限自分の教え子を異性として見ない(そういったアプローチやほのめかしをしない)という厳格な職務倫理上・人格の尊厳上の線引きができることがプロフェッショナルの条件であるべきだ。

だが正確にいえば、幼児・児童に対するペドファイルが犯罪的な性嗜好障害(人口的に少ないマイノリティー)であるとしても、10代後半~20代前半の若い女性が性的欲求の対象であるという成人男性の教職員は(実際にそういった関係が可能であるか社会的に公言するかを別にすれば)無視して良いほどに少数派であるとはとてもいえず、ある意味ではノーマルな性欲として解釈可能なものである。

大多数の教職員は『教員としての使命感・責任感』『プロフェッショナルな職業倫理』『職業キャリア・社会的身分の保守の意識』において、『プライベートな男女関係・性的嗜好』を職場や教師・生徒の人間関係とは完全に切り離して、日常の職務に精励しているはずであるが、個人の資質・性癖・精神状態を含めたさまざまな要因によって一定の割合で逸脱者・違反者が出てしまうことは完全には回避しづらい。

学校の教員に限らず、男女の間に一定の上下関係(役割関係)が生まれやすく、性的対象になりやすい10代後半~30代くらいの若い女性が多い職場では、男性だけの職場や若い女性がいない職場よりも、『セクハラ・わいせつ・性犯罪の発生率』が高くなっている。

自分よりも職業上の立場が弱い女性が多い職場では、セクハラだけではなくて職場恋愛・職場結婚も多くなるし、教員の中にも教え子(未成年者)が学校に在学中から交際して結婚したような人もいる。

教師と生徒の間で、生徒が在学中の時点で関係が発覚すれば懲戒処分を受けかねないような付き合いがあっても、事後的に相手が成人したり二人が結婚したりした後で、あの時はこうだったという思い出話として語られる場合には免責されるのが普通だろう。

更に、現代日本の世論では『教師と生徒の恋愛は真剣なものであれば許される』という意見のほうが過半数を占めることも多いようだ。教師が未成年の教え子(特に高校生くらいの年代の生徒)を絶対に異性として見てはいけないという倫理観が社会一般で常識として共有されているわけでもない。

きちんと責任を持って交際して結婚などまで考えているのであれば、お互い好きならばそれでいいじゃないかという考え方がむしろ(当事者になり得る生徒・その親も含め)主流となりつつあるというのは、かつての禁欲的・自制的な聖職者のイメージを持たれていた教員に対する一般的イメージの変質でもあるだろう。

特に生徒側がかっこいい若い先生に憧れたり惚れるなどのケースであれば、そこに何らの強制性・犯罪性もないということで、ある種のロマンティックラブの一典型のように解釈されることすらある。

そういった教師・生徒間の恋愛や結婚を職業倫理・未成年保護に反しているからダメだというような意見のほうが叩かれることすらあり、教師の教え子に対する恋愛感情・性的接触について『ダブルスタンダード(本人同士の感情を最優先しても良いケースはあるという二重規律)』が潜在化しているのである。このダブルスタンダードによって、教師と教え子とのカップルができて容認される可能性もあるのだが、勘違いした教師が一方的な妄想・欲望を教え子に押し付けるセクハラや性犯罪のリスクも生んでいる。

学校は特に能力的・立場的に劣位になりやすい未成年の子供が相手なだけに、余計に加害・被害の図式が一方的なものとして浮かび上がりやすい。

現代の教師の倫理観や生徒の恋愛感覚だけでなく、社会的な世論の側でも『無理矢理・脅し騙しのような性犯罪』は厳罰化すべきだが、『当事者間の同意・年齢的な釣り合い(教員も20代程度)・将来の誠実な展望』があるのであれば教師と生徒の役割があってもケースバイケースで考えるべきではないかという柔軟性が出てきている。

教師によるセクハラや性犯罪の問題に限定すれば、精神的・能力的・社会的に未熟な生徒が明確に拒絶しにくいような『職務上の師弟関係・役割関係』を悪用しているということである。

こういった『対等な男女関係における選択・交際(自分が選ばれる不利な立場になること)』を回避するため、『自分が優位に立てる力関係』を持ち込むという方法そのものは、かなり根深い男性と女性のジェンダー的な相補性(本人の好き嫌いよりも性と財の交換で合意する伝統的な婚姻原理など)と絡む問題でもある。

現代の性の多元性は『性欲の強弱・嗜好性の有無・異性愛と同性愛(Aセクシャル)・』などによって複雑化しているが、性的な嗜好・快楽を終わりなく追求していこうとすれば、教員はじめとする公務員の不祥事・懲戒免職に限らず、社会的信用を毀損したり人生そのものが破滅するリスクも生じてしまうことがある。

異性関係や性の領域では『足ることを知る(恋人・配偶者がいればそれでいいと納得してあちこちで欲張らない)』や『想像のレベルで満足する(極端に趣味的・変態的な欲求をリアルに持ち込もうとしない)』というのが、教員だけでなく社会人・大人としての自衛策であり倫理観の遵守ということにもなるのだろう。

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