『いじめ問題』に対する対処法:世界一有名な町工場のおじさん・植松努氏の経験談より考察

リアルないじめ、シリアスないじめに対する実効性は弱いかもしれない。『近寄りたければ近寄る、関わりたくなければ距離を置く』は、相手をどうとでも制御できる強者の戦略だ。『嫌がっている人に近寄って力関係を強いる』のがいじめの一つの本質ではないかと思う。

世界一有名な町工場のおじさん・植松努さんの「いじめ論」に考えさせられる

『お前達に興味ないし用事もないから俺に関わらないでくれ』と言えて、相手がそれを素直に受け容れるなら、そもそも一方的にいじめられる関係が成り立ってない。いじめの被害者の自分に興味・用事がなくても、加害者の相手グループに興味・用事(娯楽・利益)があって自分の意志・都合だけで縁を切れないのがいじめでは。

古来より『他者とつながる縁結び+他者から遠ざかる縁切り』は宗教的な神の仕事とされた。寺社の神域で『どうか縁を結ばさせて・どうか縁を切らせて』の無数の願いが捧げられた。いじめは『閉鎖的な逃げられない生活の場』で起こる為、かつて村八分のいじめは文字通り人を殺す力さえ持ったが、縁切りは人の難事の一つだ。

『好きな人(益・徳ある者)に近寄って、嫌いな人(害・悪ある者)を遠ざける』は、基本的に相手を制御可能な強者の戦略であると同時に、文字通りに『縁結び+縁切り(特定の他者とつながり他者を切り離す選択)』が自由にできるのは神だけ。不快な相手とも縁が結ばされ、自分側も切れない理由がある、それがいじめの苦か。

いじめられている人が縁を切れない理由は、人は『学校・職場・家庭・友人』など『生活の場』から容易には離れられず、強制離脱(学校・会社に行かない)には相応の不利益・理不尽があるということだ。簡単に離れられぬ生活・仕事・承認に密着した場だからこそ、いじめの縁切り(逃れ方)の方法・程度に悩み追い込まれる。

結婚するのは簡単だが離婚するのは難しい、どこかで働くのは簡単だが経済生活が始まると中途退社は難しい、生まれるのは自然だが幸福に人生のプロセスを終えるのは難しいというように、いじめに限らず人が織り成す浮世の苦しみや面倒には少なからず『縁切りの難事(離れられない・やめられない・しつこい)』が絡みやすい。

私が望む人と事だけに近寄って、私の望まない人と事との一切の交渉を避けられれば、人の人生は如何に平穏・安楽なものか…だが世の中には多種多様な様々な性格・価値観・生き方の他者がいて、合わない他者や加害的な他者との縁も『生活・仕事の場』において避けがたい形で生じ得る。距離を取れる嫌な相手なら話は簡単なのだが!

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