ディープラーニングの人工知能(AI)の進歩とシンギュラリティーによる社会の変化についての雑感

ディープラーニングの人工知能が人間の知能を超える『2045年のシンギュラリティー(技術的特異点)の予言』は、クラウド、IoT、ビッグデータ、ロボット工学等と有機的にリンクするが、AIに人の仕事が奪われるという悲観の背後には『機械・ロボット・コンピューターに代替されない人間の能力・脳の本質』もある。

今私たちが使うスマホは約20年前の国家プロジェクトで使われたスーパーコンピューターを凌駕するコンピューターであり、ムーアの法則に陰りが見えてきたとはいえ、小型化・高性能化のコンピューターのハードウェアの進化は急速だ。2045年には現在の『京』に相当するCPUや量子PCを個人が携帯するとも予測される。

21世紀半ば以降に、世界の仕組みや仕事のあり方がどのように変わるのかは確実な予測が困難だが、『あらゆるモノ・場面と知識・情報の効果的結合』が極めて強力な計算機(自動学習型の人間知能と区別困難なAI)によって実現されるモデルなのだろう。IoTの進化版としてIoE(万物のインターネット)なる概念もでてきていたりで、そこまで何でもかんでもすべてをネット接続すべきニーズがあるのかは疑問だが……

端的に、モノ・場面と知識・情報が現時的かつグローバルに結合されるようになれば、国家・法の権力による規制障壁や事前調整はますます崩される。市場原理・金融取引による格差拡大が憂慮されるが、ロボット工学や生命工学の『人間の身体・作業の代替率』が未来の人間の仕事・収入や健康・寿命に大きな影響を及ぼすのか。

世界の共通言語として『英語』は依然として強い影響力を維持するだろうが、21世紀後半には『計算機言語(プログラミング言語)とAIに関する言語センス』がスキルとして高い価値を持ち、イスラム教徒の人口ボリュームの増大によって『アラビア語』の話者も増える。政治・民族・宗教に技術革新がどう作用していくか。

人間が人間を超えたい、科学で人間を超える知能や存在を創造したいという科学至上主義的な『トランス・ヒューマニズム』の思想系譜は、20世紀までは現実化する技術基盤そのものが想像・妄想の域を出なかった。現状まだ妄想の範囲も多いが、数十年?100年以上のスパンの科学技術進歩は面白さと不安の両面を持つ。

AI(人工知能)、ロボティクス、IoE(万物のインターネット)、生命工学(遺伝子操作)、ナノテクノロジーなどの科学技術の進歩は、過去の科学技術のインパクトから推測が困難なヒトの未来社会構想における魅惑と脅威の両面を持つが、科学哲学・倫理学ではそういった研究を規制すべきという声も上がるだろう。

AIのコンピューターに代替できない人間の特異性は『自我・意識・心・愛・意図などの主体性(主観性)』や『創造性・計画性・直感性(ヒューリスティック)』と一般に考えられるが、『自我・意識の主体性』を『自他の相互作用・社会的効果』に還元して乗り切ろうとするのがトランス・ヒューマンな研究者の考え方だろう。

しかし、『認識・理解の本質』というのは、自分以外の他者のそれを直接的に体感できないという意味では、経験的(同類的)推測・自分からの推測に依拠する『ブラックボックス』の部分を持つので、コンピューターが本当に物事や言語を理解しているかという問題はサールの『中国語の部屋の問題』を想起させる問題でもある。

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