“ひきこもり・無職”は個人の問題であると同時に、スケープゴート化されやすい現代日本の不適応問題(社会の喪失・労働価値の低下)でもある。

ひきこもり・無職(ニート)の問題は非常に扱いが難しく、『精神疾患・発達障害・不適応・意志欠如・怠けの個人の問題』『甘やかし・過保護・過干渉・児童虐待・いじめなどの家族や学校の問題』に還元する人もいれば、『労働市場(即戦力としての経験やスキル)・履歴やキャリア・人材評価・経済構造(企業の対応や景気)の社会や企業の問題』に還元する人もいる。

実際にひきこもっている人の中には、統合失調症・重症うつ病・適応障害などの明らかな精神疾患の症状を呈している人もいれば、精神的に落ち込み気味で意欲や覇気はないが精神病理のレベルにまでは至ってない人もいれば、それなりに健康な精神状態ではあるがなかなか社会に出て働く意志や気力が起きない人もいれば、それなりにコミュニケーション力があって遊び・娯楽目的の外出ならできるという人(ひきこもりというより自発的失業の持続に近い人)もいるだろう。

ひきこもりやニートの中には、明らかに知的能力・職業能力・対話力が低いために社会に出ていけない人たちもいるが、高学歴者・潜在的能力(コミュニケーション力)の高い人も含まれている。そういった能力が低いわけではないひきこもりの人たちの多くは『自分の持つ知識・技術・経験』などを金銭(収入)・職業に変える方法・手段がわからず(捨てられないこだわり・プライドなどから)適当な職種の労働者になりきることもできずにくすぶっていることが多い。

ひきこもり・無職者の問題の難しさは、『個人主義・自己責任・市場原理の先鋭化』と『経済格差・雇用格差の拡大(一般的な労働条件・所得水準の悪化)』によって強まり、特に消費文明が発達して労働者としての主体性が揺らぎやすい先進国ではその数も増加しやすくなる。

端的には『ひきこもった後の社会復帰・再就職の難しさ』に加えて『社会参加してもどうせ最下層(低待遇)でやりがい・昇進昇給のない立場に置かれるという諦め』が加わりやすいが、現状はずっと真面目に働いてきた人でさえも非正規雇用や低賃金の待遇、解雇などの冷遇を受けることが多く、『ただ何でもいいから働くことによって満たされる欲求・自尊心』が過去に比べてかなり低くなってしまっている(それどころか働いてもなお貧困で前向きな将来の展望もない人が増えている)のである。

成熟から衰退へと向かう先進国の消費文明社会では、『働くことの技能的・心理的なハードル』が上がりやすいが、様々な知識・技能を身に付けて働いたとしても『好きなジャンルや職種の仕事(内発的モチベーションを高めて仕事そのものを楽しめる仕事)』にありつける可能性は小さくなっており、『ただ働くだけで満たされる欲求・自尊心(極論すればただ働いているだけの状態は、ただ働いていない人よりも社会的・経済的に有益であるという視点でしか評価されづらいのでひきこもりはバッシングされやすい)』もかなり小さくなっている。

何年でも変わり映えのしない単純作業で決まった時給の仕事に貼り付けになることも少なくないし、なまじっか知識・教養・情報を積み上げてきたばかりに機械的な生産活動への従事を求められる現場仕事に適応できなくなってしまった人も多いだろう。

昔ほど仕事をすべきとされている人たち(現在無職の人たち)の『人格・精神・価値・生き方』などが画一的・一律的ではなくなっており、働いていなければ仕事・収入があるだけでありがたいはずだ(多少つらいことや冷たい対応があっても我慢せよ)というような旧来的な認識がほとんど通用せず、求職者の多くも不条理や暴力暴言、長時間拘束(ブラック企業的・根性論的な働かせ方)などに対して虚弱傾向を強めている。

最低限の衣食住の生活基盤を賄うためだけに、必死に地べたに這いつくばって組織にしがみついてでも、どんな仕事でも選ばずに働いてやるぞというようなハングリー精神のある失業者がかなり少なくなってしまい、働いていてひきこもり・ニートを倫理的・社会的にバッシングしている人でさえも、『できれば働きたくない・俺(私)はこんな嫌な仕事でも我慢してやっている・お金さえあれば労働から解放されるのに・俺(私)は本当は違う仕事をやりたかった』といった屈折した労働・会社への恨みつらみを抱えている人は少なくない。

仕事や労働、経済状態に不平不満を抱いている国民の数は計測しきれないほどに膨大なものであるというか、むしろ実質的な拝金主義に堕落してしまった観のある現代資本主義社会では、本音の部分で『カネさえあれば大半の不平不満が解消してしまうし、カネがなければ惨めな思いをしやすい(そうじゃないという人も無論いるが、仕事そのものに生きがいを感じられる人や職場のコミュニティ性に帰属できる人が減っている)』というのはあるだろう。

かつての労働者階級の身分意識(蛙の子は蛙でなんでもいいから労働者としての人生を生きよ)が解体して、建前としては機会の平等や職業選択の自由、自己実現の可能性が謳われる華やかな現代の資本主義社会において、労働・仕事に納得できないとか不満がある(半ば心身を壊しそうになって嫌々ながら会社に通っている)というのは『表面化しない精神の暗がり(表面化させても自己責任論で能力・努力・実績が足りないお前自身が悪いで終わりなだけ)』になりがちなのである。

人類の歴史を振り返れば、確かに労働の大半は『身分・階級・貧困』か『権力・強制(監視)・世間体』に縛り付けられたものだったのかもしれないが、現代では労働というか職業・収入・能力の格差と自己実現の度合いがあまりに個人間で大きく引き離されてしまい、いったん正規雇用のコースから外れたりキャリアに空白・過失が生まれると『人並みの欲求・夢のある労働者生活』に戻ることは並の努力と運では難しくなっている。

ただ働いているだけであなたには価値があるんだよと共認してくれる『市民社会・仲間意識』が完全に空虚化してしまった現在では、『国家の労働の義務や権利の付与(義務を果たしていない者への批判・懲罰)』だとか『市場原理の資源配分(勝ち組・負け組)』だとかが前景に出てきやすくなっていて、逆に働き始めることによって余計に惨めな思いをさせられるのではないかという不安を持つ人もでやすい。

非正規雇用やアルバイトで働いても、社会で評価されないし将来の保証がないというような格差・貧困を煽る情報ばかりが流布されて、ひきこもりや長期無職の状態から少しでも前進しようと思っている人がいたとしても『必死に頑張ったってもう遅いのではないか(格差社会におけるヒエラルキーの底辺や大衆のスケープゴート設定に絡め取られる)』という悲観的な認識に襲われやすくなっているが、それ以前に日本でも欧米でも経済そのものが成長が停滞して分配が偏る『斜陽・格差固定の気配』を見せているのである。

市場原理や自己責任が支配権を握りがちな先進国では、極論すれば『言葉としての社会』はあっても『実体としての社会』が空虚化しており、みんな(仲間)で支えあっていく社会(いざとなったら一緒に働く仲間であるお前を助けてやる、俺たちは見捨てることはないという関係性)の中で働いているという社会共同体的存在としての実感は乏しいか全くなくなってしまった。

『なぜ働くのかの理由・動機づけ』もまた社会を支えるためではなく、自分の何らかの欲求を満たすためという個人化になりやすく、要求水準の高まった先進国の人間は『ただ飯を食うためだけの労働』をすることにかなりのストレスや苦痛を感じやすくなっている。

ただ働いていてもそこに『相互扶助・仲間意識の社会』がなく、『国家権力の義務・監視(税・保険料の支払いの要求)』や『個人の自己責任(お前がどうなろうと最終的にお前の責任で俺は知らない)』があるだけで、身をすり減らして働いても何によって報われ何によって充実するかを感じにくい労働者が増えているのだ。

華やかで豊かな外見を見せつける現代社会、魅力的な人たちが街を闊歩して人生を謳歌しているように見える現代の都会では、『やりがいのある仕事・自己実現できる働き方・平均以上の可処分所得の余裕・自由なライフスタイルを実現できる資産』さえあれば、過去にないくらいのユートピア的な幻想と関係に浸ることも可能である。

逆に言えば、中途半端な経済社会や科学技術、インターネットの進歩発展、夢を持たせる教育手法(大半の人は夢敗れるが)によって、近い場所に蜃気楼のように揺らいでいる『理想の華やかな未来社会・技術革新の幻想』が現代人の心を捉えていると言える。にも関わらず、現実には20世紀からほとんど変わらないどころか、むしろ社会性を失って自己責任化・格差拡大した『労働・職業・収入・資産』が、建前では自由・平等とされる現代人の優劣や自意識をかなり残酷な形で擬制身分のように選り分けてしまっているのである。

逆に、家や能力、資産の支えのない人がいったん大きくドロップアウトして挫折してしまえば、華やかさと自己実現の幻想どころか、むきだしの冷酷な現実が常につきつけられることになるし、そこにはいざとなったら私はお前を助ける(逆にお前も私を助けてくれ)という社会共同体の実体はないので(あれこれ文句や批判を投げてくる他者はいても実際に手助けしてくれるわけではないので)、『自己責任で何とかするしかない』と思い込んでどうにもならずひきこもり続ける人も出てくる。

『家庭・学校の夢を持たせる教育』と『親世代の仕事・雇用の常識』と『現在の若者や中高年失業者の直面している労働・収入・格差(初期環境要件)の現実』には相当に大きな隔たりがあるわけだが、現代社会で働いている人たちが感じやすい『仕事・労働に対する苦役感・不公平感』を改善しながら、『働いているだけでもその人間存在を積極的に肯定され得る+その人に可能なレベルの労働によって将来の展望が開け得るという社会性(共同体性)の回復』が求められるのだろう。

あるいは、人工知能やロボット(ヒューマノイド)による技術革新が『望まない種類の労働からの解放』を力わざで成し遂げてしまうか、その後に自らの労働を通した自己価値の実感を失った人間の新たな悩みがやってくるのか、あるいは少子化や(格差・階層意識の将来予測も絡んだ)選択的出産によって間接的な優生思想の未来社会が訪れるのか、そういった未来社会の成り行きをシミュレーションするのは面白いものだが、今ここにある現実社会や労働現場への適応を迫られている現代人の人生というのはそれなりに優秀な人であってもやっぱり楽なもの(ハードルの低いもの)にはなかなかならないものである。

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