美人論、なぜ現代社会では『外見・容姿の美』が極端に重視されるようになったのか?:美人は生涯で3600万円得をする。

美人はその定義に『当該社会で生活する人々の多くが視覚的に美しさや好ましさ(理想的な人の形態の投影)を感じる』を含むから、仕事や人間関係で得をしやすいのは道理だが、外見が昔よりも重視されやすくなった文化モードの変化もある。

「美人は3600万円得」との研究結果「整形すべき」の声

昭和後期頃までは『人は外見より中身・外見について比較する事は好ましくない』の道徳規範がかなり強くて、表立ってルックスの差異は語られなかった。産業構造が土・油で汚れる肉体労働の多い第二次産業中心で日本がそれほど豊かではなかったこと、メディアや美容ビジネス、ネットの影響が弱かったことも影響するか。

メディアが発達しておらず交友関係も狭い途上国の村落等では、美人かそうでないかの優劣コンプレックスは小さく、美人か否かでそれほど人生のプロセスや自己評価も変わらない。だが韓国が経済発展してから、先進国的に洗練された容姿の美人・イケメンが増えたように経済と外見の自意識・美への投資はかなり相関するようだ。

一昔前の『韓流ブーム』では、KARAや少女時代、東方神起などビジュアルを売りにしたアーティストやペ・ヨンジュンなど俳優が日本で話題になった。韓国の芸能戦略は『先進国の自意識に並んだ近代化のアピール』も兼ね、ファッションやスタイルが日本より洗練されてないと見られるアジアの新興国を脱した主張性もあった。

外見の劣等感や憧れは、戦前戦後の日本人にも欧米の白人(特にハリウッド映画に出るような典型的な美男美女)に対して自分たちより絵になる見栄えの良い人としてあった。昭和期には日本のアイドル・俳優が東アジアで憧れのスターのようになる事もあったが平成以降は韓国・中国でも自国の芸能文化や美の象徴が別に発展した。

逆説的な話だが、日本では幕末から明治に至るまで長らく『美人排斥論・美男子否定論』が優勢であったとされる。『美人は男の人生を狂わせる・美人は争いごとや不幸を招く・美人は病弱で短命(傾城の美人・美人薄命)』とか『色男カネと力はなかりけり・顔と口だけの男はダメ・色男は非力で役立たず』とか言われた。

当時のイケメンは『色男』と記載されるように、基本的には容姿端麗の美形というよりも『女から好かれる男・色恋において優位な男』のニュアンスが強く、色男・優男は女にチヤホヤされるから一生懸命に働かない(すぐに女がつくからヒモのようになりやすい)といった労働道徳の側面から非難されやすかったようだ。

美人やイケメンが賞揚されていなかった時代は、多数派のやっかみや偏見もあるが、農業・工業の肉体労働が中心の産業構造で男も女も泥・汗にまみれて必死に働かなければ生きていけない貧しい時代背景だったからだ。見た目が美しいかどうかは一銭にもならないの意識で、働き者かどうかの『勤勉道徳』に高い価値が置かれた。

『外見の良さだけで生きていけない(カネにならない・戦いに勝てない)貧しく荒っぽい時代』では外見はどうでも良い話になる。井上章一『美人論』によると、美人排斥論のもう一つの理由は『身分制・家格の意識』が残り、身分の高い裕福な家柄の男子が、身分の低い美人に惚れて結婚し家格を落とす事を嫌ったからの説もある。

現代的な価値観では美人は『地位の高い人・収入や資産のある人』と結婚しやすいから有利の意見もあるが、少なくとも近代以前の日本の天皇家・公家武家の上流階級の男は『美人かどうか』で正妻を選ばなかったというか慣例で選べなかった。身分が高いほど『結婚可能な身分の範囲』は狭く、権財力があっても自由には選べない。

前近代の一夫多妻や近代の妻妾制等はあるが、身分(地位)が高くてお金を持っている人ほど美人を選ぶというのは、現代の権力者の政治家や大企業の経営者を見てもそれほど当てはまるものではない。安倍晋三や麻生太郎なども家格の釣り合う相手だが、Daigoと北川景子などは時代の変化を象徴する配偶者選好かもしれない。

外見が良いほうが生涯賃金が高くなるのが、仕事・職業の収入の合計なのか、結婚・恋愛などで相手から配分・移転される金銭も含めてなのかは分からないが、一つ言えるのは、現代でも権力者・経営者・専門家の層には抜きん出たアイドルや俳優のような美人は余りおらず、社会階層・能力主義との相関は限定的な印象はある。

見た目が良ければ、他者と同程度の努力をしても大きな評価や注目を得やすい意味では仕事上の有利もある。美形ばかりで構成されるマスメディアや創作物、自他の差異を意識させるインターネット、セルフポート投稿で楽しむSNSの普及による影響もある。産業・技術・文化の変化で勤勉・謙譲・内面の評価軸が見えづらくなった。

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