人間は何のために生きるのか?:考えることと感じることのバランス

喜怒哀楽の感情や人間関係・社会生活も軽視できないが、個人的には人に固有の知性や自我を活かして世界・社会がどのように推移していくかを観察しながら意味・価値を解釈して実践する事(常に落ち着いた思索・行為が可能なスタンスを維持するのも大変だが)が面白い。

人は何のために生きるのか(05月28日)

日常的には『人間関係・社会生活・仕事や経済・愛情や信頼・娯楽や遊び』などで達成感や満足感を感じる為に生き、それらが上手くいかなくて追い詰めらると人は『生きる意味がなくなった』と感じやすい。究極的には状況反応的な感覚・感情(自分)を超えた普遍・観察・洞察など『何か確実なものを知る為に生きる』側面も強い。

自分自身をベースにすれば『考えるな、関わって感じろ』で感情優位となり、自分を含めた社会や世界を観察して把握する足場に立てば『感じるな、観察して考えろ』で理性優位になるのだが、人の自我の面白い所はその二つのスタンスをくるくると入れ替えながら『人生の有限性』を嘆いたり感謝したりできることだろう。

『自我内部の喜怒哀楽』に閉じ込められ自分の人生・仕事や人間関係だけに意識が集中したり、『自我を超越した視点』から世界・人間・社会をより正しく知り続けるために静かにまなざしたり、熱さと冷たさの二面を持つ。人生は感じる観点から早く終わってほしいと嘆く人も多いが知る観点からは永続してほしいと願う人も多い。

人の自我というか理性というかの神秘性は、神の観念や科学の体系を人が生み出したこととも重なるが、『肉体・感情・感覚・関係・寿命・事実において不完全な人間(揺れ動く人間)』であると同時に『精神・知性・感性・想像・解釈において普遍志向的な人間(静止する人間)』でも有り得るという意味考察の主体性にある。

宗教的な世界観を受け容れない限り『人は何かのためにこういった心がけで生きるべき』という所与の人生の意味・価値規範はない。生物は何かの為に生きるのではなく、DNA複製を手段とする自己保存の為に生きている(存在のための存在)からである。意味・価値は自然・生物に内在するものではなく人為的・自我的なものだ。

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