“お金・美貌の高低”を巡る幸福追求と自我(エゴ)の強度・視野限定の知足

現代を生きる大勢の人々は『幸福追求』に呪縛されていて、憲法までも『幸福追求権』を人権の一部として追認している。

幸福というのは蜃気楼に浮かぶ砂上の楼閣のようなもので、自分は幸せだなと実感した日の翌日になれば、また何となく冴えないつまらない毎日だなと思ったりもする。幸福は自分の置かれた状況や関係によって現れたり消えたりを繰り返す、幸せはずっと自分の元に置いて留めておくことが難しいものである。

マツコ「全然幸せになんねぇ」、お金稼いでも結局は「キレイなほうが得」。

ある年齢の時に幸せだと思った状況が、別の年齢の時にはそうは思えなくもなるという『幸福の条件の流動性』もある。『自分が最高の幸せの条件』と思っていたモノや相手、環境を手に入れても、それがどのくらい持続するかははなはだ心もとないものである。

『幸せといえば幸せといえる状況・瞬間・能力』を多くの人は何かしら小さなものでも持っているのだが、現代の資本主義の競争社会では『自分や周囲の何人かだけにしか通用しないような幸せ・楽しみ・満足』は軽視されやすい。

SNSの知り合いの投稿やニュースの世間一般の動向を見ていると『自分よりも幸せそうな人生や面白そうな日常を送っている大勢の他者』が目について、自分だけが恵まれない不遇をかこって、面白くもない日常を送っているのではないかという劣等感・焦燥感も生じやすいだろう。

現代では自分だけにしか通用しない自己満足的な幸せは軽視されやすいが、安定した幸せや安らぎを得る決め手になる思考・感覚のヒントは、実は『他人が自分の幸せのレベルをどう評価してくれるか』よりも『自分の世界観・行動方針・好奇心(探究心)の魅力』を高められるかの側にあることが多い。

とはいえ、かなりの割合の人が、自分の人生の現状に十分に満足できていない。現状に対する不平不満が多くて世の中の平均よりも自分がつまらない人生を送って損をしていると思っている。そこに出てくるのが、分かりやすい他者との優劣・高低のものさしになってくれる『お金・美貌への欲求と劣等感』である。

自分が幸せになれない原因、不平不満が多くなってしまう原因として、『お金が足りないこと・美貌に恵まれていないこと』は、分かりやすいというか自分と他者との間で共通認識しやすい因果関係の推測である。

確かに『お金が好きなだけ稼げる・どんな容姿や外見にでもなれる』という非現実的な前提があれば、『今の自分にとってのより幸福な状況』には近づけるかもしれないが、暫く立てば『お金のある自分・美しくなった自分にとっての新たな不平不満・問題点・劣等感』が出てくるとも言える。

現代では、若い頃に美人でもてはやされていた人が『老い(年齢相応の外見の変化・衰え)』を恐れて、いつまでも若くいたいというアンチエイジングや美魔女のブームもあるが、綺麗になれても『美貌』の次には『若さ』に固執するようになって、今度は10~20代の若い美人・イケメンに年甲斐もなく嫉妬するかもしれない。

仮に一流の芸能人レベルの美貌があったとしても、新たに浮かび上がってくる下の若い世代の美貌や新鮮さによってその地位を追われていく定めにあり、美貌でも能力でも財力でも『後生畏るべし』という諸行無常の世代・時代の移り変わりに抗える者は誰もいないからである。

自分の美しさ(鏡像)や自己評価に酔うナルシシズムに耽溺し過ぎて、すべての要求水準が高くなり他人に興味が向かなくなり、結局、若さの喪失に不安を感じながらの孤独な人生(それにも耐え得る自己愛・自信があればいいが大半の人は加齢の影響も受けるしそれほど強くもない)に落ち込む美人もいないわけではない。

お金と美貌はいずれも、現代社会において『自分以外の他者にも一般的に通用する魅力・影響力の要因』であるが、マツコさんのように『お金があっても幸せではない・美貌がある人のほうが羨ましい』という人もいれば、『美貌があっても幸せではない・お金がある人のほうが羨ましい』という人もいるだろう。

お金だけがあって自分の外見が好きになれないとか他人と比べて自分を劣っていると思うというのは、『自己肯定感の欠如・他者との差異のとらわれ』によって幸せになれない人の典型である。

反対に、美貌だけがあって仕事が上手くいかずお金を稼げずに苦労するとか、自分は好きだけれど好きな相手には好かれない(どうでもいい人が寄ってきて困る)とかいうのは、『職業や世渡り、対人スキルに関する基本的能力の不足・自己愛や自己陶酔の強さ』によって幸せになれない人の典型だろう。

お金と美貌の極端な二元論に落ち込んでお金(美貌)さえあればすべてがハッピーになるのにというのは、『今の自分自身を不幸・不遇だと思っていることの現れ』であるが、お金や美貌は『自分の自信や購買力(経済生活のサバイバル力)を高めること・他者から自分の魅力を認められやすくなることのツール』に過ぎない。

お金と美貌のツールは、お金のほうが『自由(他者・社会の束縛から逃れてやりたいようにやれる,仕事やお金で動くタイプの人であれば自由に動いてもらえる)』との親和性があり、美貌のほうが『人間関係(他者・社会・異性から認められて厚遇されやすい,自分が好きになれば相手も好きになってくれやすい)』との親和性があるので、質の違いはある。

お金や美貌はないよりはあるに越したことはないが、あればあるほど良いものではないというか、大半の人は『努力すればするほどお金を得られる・美貌を高められる』わけではなく、ある程度の年齢まで努力や工夫をしていけば『自分が到達可能な上限』を知らされることにはなる。

例えば、年収300万の人が、どんな努力や苦労も厭いません、何でもやりますから、年収1億円以上は稼げるようになりたいと言って馬車馬になって働いても、普通はどれだけやっても壁にぶつかって無理である。

外見の美しさにしても、体型・髪型・服装を整えて身なりや所作に気をつければ、『ある程度の見栄えの良さ』には到達できるが、一般人がいくらヘアスタイルやメイクを工夫しても街中で誰もが美人やイケメンだと思って振り返って認めるようなレベル(向こうから一目惚れして近寄ってきて誘ってくる感じ)の美貌に行き着けるかというと、生まれつきの造形や部位のバランスの影響もあるのでまず無理である。

なぜこんなに努力しているのに無理なのか、なぜあの人はあんなに稼げるのか(あんなに綺麗なのか)と言われても、それが現実であり、自分が無理ではないまだやれると思うのであれば、諦めずに続けるしかないとしか言いようがないが、『自分の程度』を知ってから『自分の世界観・ライフワーク・人間関係(自分が頑張り続けられるフィールド・自分を認めてくれる他者や活動)』を確立して広げていくことが大多数の人にとっての幸福実感への近道だろう。

有益な情報・知識を多く取り入れて、狭い場所に閉じこもらずに視野を広げていくことが『幸福・成功への道』だと私たちは学校教育などを通して教えられてきたが、『個人の幸福追求』では、満足することを知るために敢えて無関係な他人がどうしているのかの情報・知識を取りすぎず、視野を狭くして視野限定(自己限定)していくほうが『与えられているものへの感謝・幸せ』を感じやすくなるかもしれない。

視野を広めて自我(エゴ)の強度を強めすぎれば、『要求水準の肥大・他者との比較や競争』によって、終わりのない幸福追求合戦に巻き込まれて疲弊・挫折するか劣等感に追い込まれるかするだけだろう。ごく一部の人は、そういった上昇志向の競争に打ち勝って、欲しいものを得るかもしれないが、勝利・成功と幸福・安らぎというのも似て非なるものである。

自我(エゴ)を少し弱めて、『お金・美貌の水準にこだわらずに自分を受け容れてくれる場(お金・外見とあまり関係なく自分を愛して認めてくれる身近な他者)』を自分側も受け容れて維持していくことが幸せにつながることも多いが、『他者から認められること』と『自分のやりたいこと』とのバランスも問題になる。

無理(背伸び)をせずに今やれることを意識化・言語化しなくても自然に実践できて、『自分なりの視野・付き合いが可能な人間関係の中での楽しみ』を味わえて知足できる人であれば、初めからこの種の悩みや問題意識を持たないが。

現代人は良くも悪くも『自我(エゴ)に基づく向上心・競争心・理想主義』が強くなっていて、頭でっかちの知的な態度が高まったことで、『思考・価値観をシンプル化する自己洗脳(今の自分が良いなと思える自己正当化・現状容認のストーリー創出)』が苦手にもなっている。

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