介護殺人の増加と追い詰められる現代日本の老後:尊厳死・安楽死の議論とアンチエイジングな科学技術の夢

高齢者のいる世帯の人数が1~2人が大半を占め、老人の貧困も増加している現状で、『在宅介護・自助努力』は間接的な介護殺人や貧苦の自殺の容認になりかねない。

長年連れ添った夫に「確実に殺してね」と頼む妻 介護疲れがもたらす「介護殺人」増加の深刻さ

世帯の人数の減少と合わせ、現役世代の婚姻率低下や少子化もあり、子・孫世代の経済状況も悪化している事を考えると、政府が方向転換している『在宅介護・家族介護の推奨』は悲劇的な殺人・自殺を増加させる恐れがある。目指すべきは『各人の年金範囲内(高齢者も可能な労務提供)で賄える施設介護システムの整備』だろう。

安楽死・尊厳死の導入の議論もある。『死にたくない意思を持つ高齢者』に対する間接的な圧力・強制の問題はあるが、超高齢化社会では不可逆的に動けなくなったら食べられなくなったら『自然死・寿命死』が迫ったという意識の転換も求められる。科学・医療・福祉の進歩で自然な死の迎え方を忘れたヒトならではの苦悩は深い。

『尊厳死』は近代的な自我意識や自己決定権に基づくもので、回復不能な末期の病状で激しい苦痛がある時、本人の意思を尊重して自死を選択可能にするものだが、『人間の望ましい老い・死に方の難しさ』は周囲の他者にも納得してもらって罪悪感・後悔をできるだけ与えないようにして死ななければならないという事だろう。

安楽死・尊厳死の議論では、本人が承認しても延命努力の放棄は許されないという反対意見もある。その根底には『自然な死』と『人為の死(広義の殺人)』の区別がある。だが医療・福祉が発達した現代人にとって自然な死は過去ほど明瞭な定義ができず、老いて倒れても自然には死なず、助けられ生かされて死期は曖昧となる。

視点を変えれば、悲観的に捉えられる『孤独死』というのは、生命体としての人間個人の生理的限界(動けない・食べられない・意識を失う)を迎えて死んでいく『自然死』に近いかもしれないが、だからといってその自然死が、医療・介護を受けて周囲の人に助けられながら死にゆく人為の死より良いと思わない人も多いだろう。

介護者の意見としては『少しでも良くなるように』との思いもあるはずだが、現代の生命科学の最前線ではアンチエイジングの遺伝子治療を本気で研究している科学者も大勢いて、ベニクラゲのような不老不死の生物がいる以上、何らかの遺伝子治療で人も健康寿命を大幅に延ばせるという予測をする者もいる。

人類の医術と科学の歴史は『病気との戦い』であり、人類は数多くの病気に対して勝利を収めて、老人になる前に病死する人は大幅に減った。乳幼児死亡率を劇的に低下させ多産傾向をシフトさせ、個人の人生のクオリティを劇的に高めたが、その反動として『少子化・死と老いの現実の忘却』も起こった。

人類の神の領域をも侵犯していこうとする科学的知性は『病気』の次に『老化』を改善のターゲットに据えつつあるが、医療による病気の駆逐が『老化・がん(突然変異による悪性細胞発生リスク)・介護問題』を生んだように、生命科学による老化の抑制・駆逐が起こるとすれば、更に別種の問題を人類が襲う事にはなるだろう。

そこまで生命科学や医療技術を進歩させるべきではない、人間は生まれて老いて死んでいくのが『自然の摂理』と考える倫理観は現状で支配的なものだ。だが人間知性は問題解決に向かい想像を現実化してきた、人が今後ずっと『老化・介護』に苦しみ続けるなら、iPS細胞などの延長で老いの緩和に科学は挑み続けるのだろう。

人間は老いて死ぬのが運命で自然の摂理だとする倫理観が支配的な一方、その倫理観は『どう足掻いても人間は必ず老いて死ぬ(遺伝子のプログラム)』という現実の諦観に支えられており、クリームを塗ったりサプリを摂取したり運動したりの『中途半端なアンチエイジング』が盛んなのを見ると老いが嫌いな人はやはり多いのだ。

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