相模原市の障害者殺人事件:知的障害者(重複障害者)を差別しやすい感情と殺すことは違う。“綺麗事の倫理・福祉”を排除すれば社会は成り立たない。

相模原市の知的障害者施設『津久井やまゆり園』で19人を殺害した植松聖容疑者(26)は、『個人的な怨恨・嫌悪・挫折・大麻(精神異常)』を引き金にして、『障害者排除(安楽死・虐殺)の思想』に染まった挙句に、戦後最悪の残忍な大量殺人を起こした。

mixiをはじめとするウェブでは『事件自体の強い批判・容疑者の徹底的な否定』も多いが、『容疑者の障害者差別思想に対する侃々諤々の議論』もいくつか行われており、その中には『重複障害者の悲惨な現実と接したことがなく、介助したことのない人が理想論を語る』といったような意見もある。

この事件に対する意見・感想を読んでいると『自分も含めた一般大衆の潜在的な障害者の差別(区別)+極端に知性や自我の能力が低い人に対する敬遠と心の壁』というのはやはりかなり根深いものだと思わざるを得ないのであった。

それはどんなに道徳的・社会的に正しいことを言っていても、実際の行動や発言としては障害者を差別せず目の前にいれば笑顔で支援するとしても、重度の知的障害の人に対して『私たちとは違う世界の人であるという意識』を完全になくすことは不可能であるか至難であるということだ。

かつて知的障害は『知恵遅れ(精神遅滞)・白痴』と呼ばれてかなり激しい偏見・差別に晒されたが、人間の知性・言語能力というのは他者から見たその人の『尊厳・侮りがたさ』と分かちがたく結びついている。知性・言語を失えば、人間はどうしても自律性・判断力がないがために軽んじられてしまうこと(健常者と同等の尊厳や立場にあるとは認めてもらえないこと)を避けられない。

『社会・経済・人の役に立たなさそうな弱者をコスト(無意味)として叩く風潮』にのっかった障害者差別のポジションを、『本音の暴露(綺麗事をいうな)』として語る人が結構多いことにも慄然とさせられる。

だが、『本音・自分たちの利益』だけを正論として押し通せば、最終的に行き着くのは『みんなが幸せなユートピア』ではなく恐らく『生命価値の厳しい序列化』である。能力や魅力、稼ぐ力が人並みにないと見なされた人間が、守られて生きられる場所が極端に狭くなってしまう社会であり、みんな必死になって『俺(私)はこんなに役に立つ人間である・人並み以上の能力や魅力があってどこにも悪い所がない使える人材である』ということをアピールし続けなければならない。

自分自身の他者に対する力が平均前後のラインであれば、いつ『社会に不必要な劣った存在・税金を無駄に使う厄介者』として不利益な処遇をされるかわからない、殺伐とした非人道的・優生主義的なハイパーメリトクラシーのディストピアが待ち構えているだろう。

そんな能力主義が厳しく働く選別的な社会、他人から何か役に立つ(心を喜ばせられる)価値を認められないと生きるのが申し訳なく感じさせられる社会で、ただ五体満足で平均程度の知能があるからといって、『俺(私)と家族と知人なら合格ラインにあるから大丈夫だ』とふんぞり返っていられるだろうか。

人里離れた山奥の障害者施設・福祉施設に『日常生活で関わりきれない人・個人的には付き合いを持ちたくない人(まともなコミュニケーションが成り立たなかったり衝動的な行動・不潔な振る舞いをしたりする知性・自我が弱い人)』を預かってもらうことによって、私たち現代人は『極端に異物として認識される重度の重複障害者の姿』を視界に入れず良心の痛みを感じずに生活できるように環境調整されていることも、潜在的というか機能的な障害者の区別ではある。

『障害者差別』と一律にいうが、現代では身体障害と軽度の精神障害に対しては恐らくそれほど深刻な差別はなくなってきている。ネットで怪気炎を上げて障害者をバッシングしている人にしても、普通にコミュニケーションができ、手伝ってもらえば笑顔で『ありがとうございます、助かりました』と返してくるような心根の良い身体障害者のことをそこまで嫌悪・侮蔑していることはないのではないだろうか。

『何でもしてもらって当たり前・社会的弱者なのだから健常者以上の環境を整えてもらうのは当然の権利・助けてくれないお前は人でなしで生意気な奴だ』とふんぞり返って主張すれば、心身の障害の有無とは別にその人間性が嫌われて関わりたくないと思われる可能性はあるかもしれない。

確かにバリアフリーやノーマライゼーションのさまざまな福祉政策で多少の追加的コストはかかるかもしれないが、身体障害の人がそれで少しでも便利に生活できて外に出て社会参加しやすくなるのであれば、そこにかかってくる予算が無駄だと思わない人のほうが多数派だろう。

現実検討能力と会話能力、人間的な魅力(笑顔・愛想・感謝など)が残っているかどうかで、障害に対する健常者の受け止め方は180度変わり得る。知的障害があっても『自分たちの心や感じ方とどこかつながる要素が感じられるだけの思考・態度・反応』があれば、心からその障害者を嫌悪して排除しようなどとはやはり良心からしても思いにくいものである。

だがこの異常な事件で提起されたのは、『自分たちの心や感じ方とどこにもつながる要素が感じられない・まったく会話やジェスチャーの意思疎通ができず反応も異常であり時に暴力的で反抗的である・一般的な意味での人間の自意識や思考能力、魅力がどこにも感じられないような重度の知的障害(身体障害・重度の疾患も併発する重複障害)』であった。

全くコミュニケーションが成り立たないほど極めて知的障害が重たくて身体・精神の障害も併発する人たちは、児童期より前から専門の障害者施設に入ってしまうことも多い。普通学級と同じ学校内に設置される特別支援教育では面倒が見切れない程に症状・障害が深刻であることから、今まで一度も直接見たことがないという人もきっと多いだろう。

重度の知的障害者が差別・嫌悪されやすい背景には、他の障害区分の人とは異なり、『意思の疎通性・感情の共有性・自我(自己尊厳)の存在』を確認することが難しいことがあるからである。親・教育者・介護者にしてもかなり一方的なアプローチになりやすく大きな改善・進歩が期待できないことも徒労感につながりやすいのはあるかもしれないが、逆に言えばそういった一方的かつ献身的なアプローチが徒労・無意味と感じる人は障害者福祉の分野の職業への適格性がかなり欠けているのである。

知的障害者は『何を考えているか分からない・自分自身のことさえ分からない・言語を使いこなせない・身だしなみが無茶苦茶になったり不潔になったりする・他者の尊重や思いやりのようなものが感じられない・行動の動機づけが分からず時に衝動的な振る舞いをする』などから偏見・差別を受けやすい。

だが、それでも無意識的に差別すること(差別というよりは当事者として現実の問題としては関わりたくない、個人的に好きではないと思うこと)と殺すことは違うし、後者は(ナチズムなどの障害者虐殺の歴史を踏まえて進歩してきた)現代社会の法と倫理において決して許されないことである。

『綺麗事や建前の要素も含んだ倫理・福祉・宗教』を全否定することは、文明社会・人間心理の堕落につながりかねないのであり、結果的に『社会の豊かさを阻害している悪者探し』が始まって、弱者がより弱者を探して必死に叩き合う(あいつよりも俺のほうが世の中の役に立っていると主張し合う)ようなこの世の悲惨に落とし込まれてしまう。

お花畑の綺麗事を捨てて、本音と本音、利害と利害がダイレクトに実力勝負でぶつかる社会(誰がより優れていて役に立つのかを競争し合って、負け続けて本当に役立たずと見なされれば最後は殺される合理的な無駄のない社会)のほうがマシだというのは、普通に考えれば人間的な良心・想像力を捨てた先に行き着くかなり残酷で動物的な思想である。

合理的ではあるが人間的な感情が拒絶する(自分や知り合いの誰かがいつお前はこの社会に要らないと指さされるか分からない恐怖がある)ので、社会全体の利益も減っていく可能性が高い。生きていくための権利なり許可なりを、競争しながら誰か(国家権力)にお伺いを立てるような社会に、住みたい人などほとんどいないからであり、最底辺が合法的に抹殺されたとして次の最底辺に誰が来るのか(どんな条件が付け加えられるのか)に怯え続けたくもないだろう。

相模原市の事件を契機に『意識的・無意識的な障害者差別につながる言論』が溢れ出てきた背後には、『現代日本の庶民階層の没落(健常者なのに生活が苦しく日々が苦痛)・国家財政の窮迫・経済大国の斜陽・超高齢化社会の閉塞感(お金のかかる非生産的とされる層の増加)』が暗い影を落とし始めたことも影響している。

アドルフ・ヒトラーの指導するナチスドイツが障害者差別政策を始めようとした時の政治宣伝のプロパガンダには、『この障害者の人生を支えるために年間○○マルクの税金が必要になる』といった文句が書かれており、その文句が間接的に『この税金は本来であれば労働者として納税しているあなたたちに再配分されるべきものなのだ』というメッセージを伝えていたのだという。

現代日本でも増えている印象のあるヘイトスピーチや社会的弱者の差別にも『社会に生産性・労働力を提供しない人にこれ以上の税金を使うな』というロジックは多く、その言説の背後には『そこに多額の税金を使うならもっと頑張っている私たち(支援すれば生産性を発揮できる私たち)に再配分すべきだ』という自己利益の追求も絡んでいる。

だが障害者の人権・生存権や障害者福祉というのは、税金を投資すれば何らかのリターンがあるという功利主義の価値観で守られているものではそもそもない。『普遍的な人権のフィクション』をできるだけ社会全体で守っていくことで、人間の倫理的・心情的なヒューマニズムの前進を何とか逆行させまいとしているのであり、弱者を思いやることのない『自然・動物の残酷さ』に対峙して踏ん張る人間理性(人間と動物の差異としてあるヒューマニスティックな心の必死な具現化)の戦いなのである。

文明的・理性的な人間社会の構成員としてふさわしい最低限度の人間性(ヒューマニズム)を保持して、すべての人間の人権を可能な限り守るためなのであり、人間が人間を差別して殺して生き延びる動物的・原始的な殺伐とした世界への退行を押しとどめること自体が目的なのである。

“綺麗事の倫理・福祉・宗教(博愛)”を具体化することが個人レベルでは不可能であればこそ、国家・社会が社会福祉制度として具体化しようとしているのであり、『そんな綺麗事は要らない・本音で邪魔な存在はなくしていけ』とするならば、それは人間が人間であることの自己定義でもある倫理や良心を自ら捨ててしまうことにも等しく、その路線を突き進んでいけば大多数の健常者にとっても生きづらい選別主義の社会(誰が要らない存在として処遇されるかわからない)になりかねないのである。

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