子供を産んだ後に愚痴をいう人に『じゃあ産まなきゃよかったじゃん』というのは正論なのか?:未来・人生は計画通りには進まないもの

皆がいずれ子供を一人は産む前提が成り立たなくなり地域・同世代の育児の連帯も薄れた。『自由意思+能力・機会+自己責任』のロジックで、子供に限らず多くの分野で『本人の自己選択の結果』に矮小化され共感・支援を受けづらくなった。

「じゃあ産まなきゃよかったじゃん」という正論の残酷さ

記事のテーマについては、愚痴・不満をぶつける相手を選べば良いという話になる。『愚痴・不満の内容が相手にどのように受け取られるかの想像力』も働かせると良い。だが『自由意思+能力・機会+自己責任』は、本人に結果を納得させ周囲が罪悪感を抱かなくても良いための現代の因果関係のフィクションの面が強い。

出産後に『嫌なら子供を産まなければ良かった』、就職後に『嫌ならそんな会社で働かなければ良かった』、結婚後に『嫌ならそもそも結婚しなければ良かった』というのは、今後悔しても意味のない『後付け(後知恵)の自己選択の否定』に過ぎない。その行為をした時点では良いと思ったが、結果が違っていた等は幾らでもある。

問題は『結果』をどうこれからの人生や行動にポジティブにフィードバックしていくかであって、『嫌なら産まなければ良かった』など現実を否定しようとする発言は意味がない。本人は『産んだのだからきついけど頑張って育てよう・子供の可愛い所や子育てのやり甲斐を見つけていこう』と発想を切り替えるしかない。

仮に愚痴や不満を言われた相手が自己責任論で返すなら、『嫌なら産まなければ良かった』ではなく『大変そうだから自分はやめておく』ならまだ筋が通るが、既に産んだ友達には(精神的余裕も影響するが)『今は大変だと思うけど子供は可愛いね。やっぱりお母さんが一番好きで安心してるね』くらい返して上げれば良い。

ただ愚痴・不満をいう相手を選ぶことである。本人が恋愛・結婚・妊娠などで悩んでいて上手くいってない状態の人にいうのは間違いで、笑顔で対応してくれても相手に精神的負担を掛けている可能性がある。子供関連の愚痴は配偶者や母親、『子育て経験のある同世代かやや年上の友人知人』くらいに言うのが良いのではないか。

事後的に『あの時にあれをしなければ良かった・こうすれば』と、過去の自己選択を悔やむのは無意味だが、人間の人生の出来事や苦楽を『計算した予定調和の自己選択』で制御するのは不可能だ。あらゆる不幸・失敗・後悔の結果を回避する選択をするなら人は死ぬしかなくなる。現代人のメンタルの萎縮ともつながった問題だが。

『じゃあ産まなきゃよかったじゃん』は正論ではなく、極端なリスク回避に過ぎない。困難な事業にチャレンジした人が失敗した時、後から『あんな挑戦をするからだ』と冷笑するような態度で褒められたものでもない。究極のリスク回避は死だが、選択はリスクで選択しないもまたリスクとなる、人は他者との対話で癒されたがる。

人生の重要な選択に必ずあるリスクは同調圧力や社会常識、周囲の意見によって目隠しされることが多いが、『選択しなければ居ても立ってもいられない不安,何もないならないでおかしくなりそうな人の衝動(無為と感じる時間経過に対する主観的な焦り)』によってもテイクされやすい。リスクは『可能性』とも読み換えられる。

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